林昭 Lin Zhao その三

 余潔さんが「自由亜州電台(ラジオ・フリー・アジア)」に寄稿した文章の後半部分です。くどいようですが、私の翻訳は必ずしも正確ではないので、中国語がわかる人は原文を読んだ方がよいと思います(https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wenyitiandi-cite/yj-01052022131024.html)。

 私は1989年6月4日の天安門事件を直接見た人間なので、「中国人」を一括りにしてどうこう言うのには若干の抵抗感があります。もちろん便宜的に「中国人は~~」という表現をすることはありますが、その範疇に入らない中国人が山ほどいることは前提です。日本人にも一般的傾向というものはあると思いますが、一括りにしてどうこう言われたら、誰でも反感を持つのではないでしょうか。

 私にとって「林昭」の発見は衝撃的でした。たぶん、彼女の叫びは数多いる良心的な中国人の思いを代表しているのではないかと思うんですよ。いかがでしょうかね。最近都市封鎖を経験した上海人なら解るんじゃないでしょうか。

 林昭を描いた映画があるようなんですよ。主演はハンナ・ウーさんという女優のようなのですが、雰囲気的には合ってますかね。ただ、言語が英語なんですよ。たぶん、生粋の中国人が見たら、どこか違和感がある描き方になってるかもしれません。いずれ、生粋の中国人の手で彼女の映画が作られると思いますが、その時こそ中国に自由と民主主義が開花しているはすですね。

 4月29日---林昭遇難53週年忌日。傳記故事片《五分錢生命》預告片(Movie "5-Cent Life" Trailer)
 https://www.youtube.com/watch?v=rwtCfRVM1lg

 それでは訳文の後半です。
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 林昭の“迷途知返(さまよった末に正しい途にたどりついた)”は、北京大学で陰険で悪質な反右派運動を身を以て経験したためだ。その後彼女は蘭州大学の張春元ら右派の友人たちと知り合い、彼らから農村で発生している想像を絶するような悲惨な大飢饉のことを知ることになる。彼らは地下出版物「星火」を印刷し、大躍進政策の災難や毛沢東による人民奴隷化政策を告発していた。この時林昭の心に、かつて教会系学校で受けた“自由、平等、博愛”のキリスト教精神が蘇り、キリスト教徒ととしての良心を取り戻した。林昭はアウグスティヌスカルヴァンボンヘッファーの著作を読む機会はなかったし、二千年に及ぶカトリシズムや歴代聖徒の豊富な精神的系譜を授かったこともない。しかし、彼女は獄中の極限状態の中で直接神の言葉の恵みを受け取ったようだ。つまり、“真理によって自由を獲得”したのだ。まさに彼女が獄中で書いた手紙の中で宣言しているように、“私の命は神のものだ・・・もし神が私を必要とするなら私は生き続ける、きっと生き抜くことができる。もし神が私を自覚的殉教者にしたいのならば、私も心から感激してその栄光を賜りたい!”もし真理の光がなければ、彼女は自分一人の力に頼るしかなく、残酷な刑罰に耐えることも死を受け入れることもできなかっただろう。

 多くの人がフランスの“聖女ジャンヌ・ダルク”になぞらえて林昭を“聖女”と呼んでいる。しかし、林昭は自分を決して超越的な存在とは思っていなかった。彼女は「私はファッシスト共産主義の悪魔たちから自分の基本的人権を取り戻すことを堅く決意している。なぜなら私は一人の人間だからだ!一人の独立した人間として、私は生まれながらに持っている、そして神の与えたもう完全な人権を享有する権利を本来持っているのだ。」連曦氏が著したこの伝記の本質的価値は、林昭を終始人間的な感情や欲望を持ち、頑固で一途で欠点のある一つの生命体として研究し表現していることである。林昭の人生の輝きを描くと同時に言葉の背後にある闇の部分にも光を当てている。

 林昭が母親に宛てた手紙には高邁な理想論を記したものではなく、江南地方のグルメ料理を熱心に並べたてているものがある。「私にこんなの作ってよ、お母さん、私食べたいの。柔らかくなるまでじっくり煮込んだ牛肉や羊肉、豚の頭の煮込み、豚油の煮凝り、牛筋の焼いたの、鶏肉か鴨肉を焼いたの、お金が足りなかったら誰かに借りてね。魚も無くてはだめよ、塩漬けのタチウオ、新鮮なマナガツオ、ケツギョは丸ごと一匹、これを蒸してね。フナのスープにコイの蒸し焼き。全部蒸したの、焼いたのは要らないわ。それに魚の干物でご飯を食べたい。月餅、お餅、ワンタン、水餃子、春巻、焼餃子、ヤキソバ、粽子、団子、臭豆腐干、パン、クッキー、フルーツケーキ、緑豆ケーキ、酒醸餅、カレーライス、油球、ロンドンケーキ、開口笑。糧票(食料チケット)が足りなかったら誰かに恵んでもらってね。・・・」林昭は自分の大好きな食べ物やお菓子を滔々と並べ立てて、わざと母親を困らせるようなことを言っている。文革の狂騒の中で、自分自身の生活でさえままならない母親が娘のためにこんなにもたくさんの贅沢な食べ物を準備できるはずなどなかった。仮に何とかできたとしても、監獄の中に送ることは不可能だっただろう。林昭は面白がって記憶の中のグルメ料理を書いて見せただけなのかもしれない。これは監獄の中で極度に貧しい食生活おくる人間にとっては当たり前のこととも言える。しかし林昭は、あるいはもっと深い意味を託していたのかもしれない。老練なマスコミ人である朱学東氏は、『林昭 “斎斎我”的背後』という文章の中でこう指摘している。蘇南地方の呉語を話す地域では、“斎斎”の発音は“zaza”となり、献祭(祭り捧げる)という意味がある。つまり儀式的に重々しく敬い食べ物を捧げるという意味であり、この言葉の背後に泰然と死と向かい合う彼女気持ちが現れているというのだ。

 獄中では極めて限られた情報しか得られなかったため、林昭の政治的判断は完全に正確であったとは言えない。たとえば20世紀後半のアメリカにおいて、ケネディは先見の明のある大統領でも信念のある政治家でもなかったが、林昭は中国政府メディアが批判的に取り上げたケネディの断片的な言葉から、ケネディは第一級の偉大な人物であると推定している。1962年病気治療のために保釈されていた期間中、彼女は「人民日報」に掲載されたケネディベルリンの壁での講話を読んで感激し、“たった一人でも奴隷的状態に置かれている人間がいるのであれば、全人類が自由であると言うことはできない”という言葉を引用して、ケネディを「偉大な政治家であり、偉大なアメリカ人」であると賞賛している。1963年11月、林昭はケネディが暗殺されたというニュースを新聞で知り、「深く激しい哀悼と悲愴感」を文章で表現している。

 本書は相当なページ数を割いて、これまで人々から無視されてきた獄中の林昭の“精神的逸脱”の真実を描いている。当時上海市の党委員会書記だった柯慶施を、彼女は陰の救世主、精神上の恋人と考えていた。情報が限られていた上に、柯慶施は上海市民に人気があったので、彼が毛沢東の熱烈な地方支持者であることなど彼女には知る由もなかった。毛沢東は自分より若い彼を“老柯”と呼んだりしていたが、それはおそらく柯がソ連留学時代にレーニンに会ったことがあるからだろう。林昭は獄中で蜃気楼でも見ているかのように、文革前に病死した柯慶施が自分の無実を毛に訴ええたため逆に毛に謀殺されてしまったものと思っていた。彼女は柯の位牌をシャツの上に血で描きその霊を清めた。この儀式によって柯を共産党の党籍から離脱させ、彼の魂が主によって救済されるものと考えたのだ。演劇の脚本のような『霊偶絮語』という作品の中で、彼女は女性主人公としての自分と柯との冥婚(死後の婚姻)を描いている。これについて連曦氏はこう言っている。「このような文章を書くことによって彼女は孤独な監獄生活を幻想的な世界に変えていったのだろう。そこでは彼女にとって親しい二人の死者を自由に呼ぶことができ、いつでも話をすることができたのだ。そうやって自分を慰めていたのだろう。」彼女のことを崇めている後生の人々や研究者は、林昭の間違った判断や妄想を隠蔽すべきではない。林昭のこの“精神的逸脱”から、むしろ私たちは林昭が獄中で受けた非人道的な扱いの酷さを想像することができるからだ。ボンヘッファーナチス強制収容所での境遇は林昭よりも遙かにましなものだった。この事実から中国共産党の残虐さと邪悪さはナチスなど足下にも及ばないものだと反証することができるだろう。

 林昭は“異民”という表現で自分自身と、毛沢東時代に政治的迫害を受けた被害者、つまり歴史上の反革命分子、地主、右派分子、現在の反革命分子とその家族たちを定義している。「彼ら異民たちはインドのカースト制度における非可触賤民よりもさらに貶められている」と林昭は指摘している。

 林昭の家族は全て“異民”だった。彼女の父親、彭国彦は北洋政府時代に東南大学を卒業したエリート人材で、卒業論文のテーマは『アイルランド自由邦憲法述評(?)』だった。その後彼は短期間だが県長を勤めたりしている。共産党が実権を握った後は“歴史反革命分子”とされ、その罪を認めなかったため“頑固分子”の烙印を押された。そして、1960年11月23日に服毒自殺をしている。彼女の母親、許憲民は社会活動家であり企業家でもあった。国民党南京政府の国民大会代表に選ばれたこともある。その後考え方が左翼的になっていったが、中国共産党の政治運動による迫害から逃れることはできなかった。林昭が銃殺された後、彼女は電車に飛び込んで死のうとしたが死にきれなかった。苦しみながら1975年まで生き続け、服毒自殺。一家三人の運命は林昭の言うとおり「私たち中国の無数の犠牲者たちは、その尊い命を捨て去って、共産党の悪魔のような全体主義的暴政による生命に対する汚辱と弾圧に決然と抵抗しているのだ!」

 林昭の資料は中国共産党によって未だに極秘とされ、対外的に公開されていないため、現在でも監獄職員や獄中の友人などによる林昭の獄中生活の具体的な様子についての証言を探し出すことができない。連曦氏は林昭が残した獄中の文章だけを根拠に、上海提藍橋監獄の生活の情景を再現するしかなかった。十年以上前、私は字跡がぼやけてしまった獄中文書のコピーを手に入れることができた。しかし、中国に戻った際に北京空港の税関に没収されてしっまった。私は弁護士を頼って何度も税関と交渉し、やっとの思いで取り返すことができた。中国共産党の監獄はまるで地獄のようなところで、彼らは監獄に関する情報を厳重に秘匿している。おそらく中国共産党政権が崩壊したとき、はじめて林昭の資料と監獄内部の情景が明らかになるだろう。将来、連曦氏がそれらの資料を読むことができれば、もしかしたら本書の続編が書かれることになるのかもしれない。

 林昭が銃殺された後、家族はその遺体を蘇州郊外にある霊岩公墓に葬ったという。私は中国を離れる前に林昭の墓に参謁するために赴いたことがある。公墓のある山の麓には参観客を林昭の墓に案内する仕事を兼業としている現地の人たちがいた。“案内料”は決して安くはなかった。おそらく林昭の墓を参観するために訪れる人が絶えることはないのだろう。もはや林昭の墓は民主主義の聖地となっているのだ。しかし、中国の民衆は未だに魯迅の小説『薬』に描かれた血塗れの饅頭を喜んで食うという性質から脱してはいないらしい。まさに林昭が生前に哀嘆したように「この奴隷制度の中で生きる人間たちは・・・なんと憎むべきか!」

 中国の現代史は退歩の歴史だ。私が中国を離れて何年も経たない内に、林昭の墓が厳重な警備を要する“国安重地(国家保安上の重要地点)”に指定されたと聞いた。現地の警察は墓の周囲に大量の監視カメラを設置し、参観に訪れた人々を厳重に監視しているという。林昭の墓地は趙紫陽と同等の待遇を受けているわけだ。林昭の命日に参観に訪れる多くの人々が警察に暴力的に阻止され、暴行され、拘束されているという。林昭は生きている間は“異民”となり、死んでからは“異鬼”となったのだ。中国共産党は彼女を生かしてはおかなかったが、死んだ後も安眠はさせないつもりらしい。これはおそらく中国共産党劉暁波の家族にその遺骨を海に散骨させたのと同じ理由によるものだろう。

 連曦氏は、すでに過ぎ去った過去の出来事を述べているのではない。林昭の物語の新しいバージョンが現在でも中国で繰り返されており、林昭を虐殺したその体制は現在も活動をやめていないのだ。武漢肺炎の真実を暴露した民間ジャーナリストの張展氏は今も林昭と同様に獄中でハンガーストライキをしている。湘西郷村の女性教師李田田氏は、たった一言言論の自由を支持すると言っただけで、林昭と同様に精神病院に閉じこめられている。新疆大学の女性教授で人類学者のラヒラ・ダウト氏はウイグルの民俗と民族誌について研究したために“民族分裂主義”の罪名で秘密裏に重刑を受けている(刑期は外部に知らされていない)。政府に批判的な法律学許志永氏の友人である李翹楚氏は、獄中の友人に対する虐待を批判しただけで“国家政権転覆煽動”の罪で逮捕され、獄中で虐待され重度の幻聴を病んでいる。彼女たちは皆新しい時代の林昭ではないか。

 野火焼不尽、春風吹又生。このように次々と現れる“異民”たちは、最後にはこの東亜の大陸の暗闇に自由と正義をもたらしてくれるに違いない。
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 二週間ほど前から『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦」』を読み始めました。第2巻と第3巻は注文中です。著者はイリシャット・ハッサン・コクボレさん。以前youtubeで彼の動画を見たことがありますが、非常にわかりやすい中国語でありがたかったです。ウイグルについても勉強しないとね、何しろ知らないことばかりだし。

林昭 Lin Zhao その二


 何か、こう胸の奥に深く沈殿していくような、言葉では言い表せない感情が残りますね。彼女が銃殺されたのは1968年4月29日。私はその頃2歳半の幼児ですが、それでも生きていた時間に重なりがあるわけです。もっとも彼女は12歳ぐらいまでは第二次世界大戦の時期と重なっているので、日本人といえば“侵略者”であり“敵国人”でしかなかったはずですね。でも、どういうわけか彼女の弟は日本の俳句の研究者なんですよ。まぁ、兄弟とはいえ別人ですし、弟の方は姉の問題もあって政治嫌いだったようですし。

 勝手に想像してしまうんですよ。もし彼女が提籃橋監獄の鉄格子の内側から現在の繁栄した上海の街並みが見えたら、いったいどう思うだろうか。もちろん毛沢東を崇拝する習近平共産党独裁体制は今でも続いているのだけれども、少なくとも物質的には彼女が生きていた時代の中国とは違い、非常に豊かになっているわけです。でも、もしかしたら林昭は天性の直感で、現代の中国も自分が望んだ人間の自由が尊重される世界ではないことを見抜いてしまうかもしれませんね。

 彼女に興味を持って以来いろいろ調べているのですが、彼女が書き残した“血書”、つまり自分の血で記した文書も、まだ全てが公開されているわけではないのでわからないことも多いんですね。中国共産党にとっては当然“隠蔽”と“抹殺”の対象ですから、私が生きている間にそれら全てが公開されることはないかもしれません。でも、そんなことでいいんですかね。彼女は全中国人にとっての精神的財産ではないかと、私は思いますよ。

 いろいろ資料を探していたら、余潔さんが「自由亜州電台(ラジオ・フリー・アジア)」に寄稿した文章が掲載されているのを見つけました。余潔さんは、私が尊敬する中国人の一人ですが、何しろ頭脳の出来が私と違うので、彼の書く文章は時に非常に難しいのです。本来、私のようなボンクラが訳してはいけないのですが、林昭に関する文章なので、勉強と思って挑戦してみました。訳が正確とは言えないので、中国語がわかる人は原文を読んだ方がよいでしょう( https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wenyitiandi-cite/yj-01052022131024.html)。

 長いので二つに分けます。今回は前半です。

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禁書解読
余潔:臣民でも暴民でもない“異民”としての林昭---連曦『血書:林昭的信仰、抗争与殉道之旅』
2022年1月14日

中国毛沢東時代の異端思想の頂点である林昭の反共と反毛

 中国思想史と中国キリスト教史の先覚者たちは絶えず抹殺され葬られてきたため穴だらけの歴史となっている。歴史書の中心は歴史家たちが大袈裟に描く栄光に満ちた成功者たちによって占拠されているが、彼らの大半は時節を読むのが得意で己の保身のためにうまく立ち回った凡人か奴隷根性の持ち主でしかない。全く逆に、たった一人で危険を顧みず強大な権力に立ち向かっていった“思想史上の失踪者”が存在している。彼らこそこの大地の脊梁であり、記録され、思い出され、受け継がれ、発揚されるべき対象である。“思想史上の失踪者”の発掘は極めて困難な“知識考古学”だが、このような仕事は苦労ばかりが多くて割に合わないものであり、努力に応じた結果が得られるともかぎらない。

 小さな灯火で長く暗い夜を照らし出すことは難しい。しかし、暗闇の中にいる人々に一筋の希望の光を見せることは可能だ。中国思想史と中国キリスト教史に、林昭のような人物の記載が有るのと無いのとでは、天と地ほどの違いがあるということになるだろう。長年にわたって中国キリスト教史と中国近現代史を研究してきたアメリカ・デューク大学の世界キリスト教研究講座教授連曦氏は、8年もの時間をかけて、蘇州から北京大学、提藍橋監獄から霊岩山公墓に至るまで訪問し、大量の一時資料を収集し、さらに林昭の友人たちを取材し、“思想史上の失踪者”の一人である林昭のために、彼女の思想と精神の伝記を歴史上最も完全な形で一冊の本にまとめ上げた。このような著作が学術界において高い名声をもたらすとは言えないだろう。しかし、林昭の長詩の標題と同様、それは天界から火を盗んだプロメテウスのような仕事であると言えるだろう。林昭の生命と思想の変遷を再現することによって、将来の中国の民主化のために大切な火種をもたらしたのだ。それはとても小さな火種かもしれないが、中国の民主主義への転換の成否と優劣を決定づけるものに違いない。

 私が林昭の名前を最初に知ったのは、北京大学中文系(中国語学部)銭理群先生の授業でのことだった。その後、私は北京大学大学史や中文系史、北京大学図書館の膨大な蔵書を調べてみたが、林昭に関する資料は何一つ見つけることができなかった。銭先生は私の指導教官ではなかったが、私に最も影響を与えた先生だった。しかし、銭先生は西洋キリスト教文明や信仰については詳しくなく、キリスト教と林昭の重要な関係性について意識はしていたけれども、この方面からのより深い研究や解読はできなかったようだ。さらにその後、私と劉暁波氏は“天安門の母”として有名な丁子霖氏と知り合いになり、彼らから林昭についてのより多くの事跡や観点を聞くことができた。反抗者と反抗者の間には心に通じるものがあり、それは時代や生死を越えるものなのだろう。

 林昭の共産党毛沢東への反抗は体系的に論じられたものではない。しかし、それは本質的で徹底的である。彼女は西側の政治学について専門的に学んだことはなかったし、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読んだこともないだろう。それでも彼女は正確に“極権(以下:全体主義と訳す)社会”という概念によって共産主義中国を定義している。林昭の“全体主義”という単語は使用は、1960年代の公的な中国社会では他に例がない。1950年代に中国官製メディアがユーゴスラビア共産主義者連盟綱領の草案を批判するために“全体主義”という単語を引用したことがあるが、反右派闘争以降は二度と使用されることはなかった。中国人が最も早く“全体主義”を知ったのは、1939年に青年会が出版した余日宣の『キリスト教徒と極権主義』を通じてだった。林昭は、中国は全体主義統治の警察国家であり、特務機関が党の全てを支配し、党が国家を統治していると指摘している。この種の全体主義体制は人民の血とルサンチマンによって権力が維持されており、個人への迷信や偶像崇拝の土台に築かれ、人民は愚民化政策によって奴隷根性が植え付けられているという。林昭はさらに具体的実名を上げて、毛沢東を未曾有の暴君でありならず者であり、中国の暴政は暴君毛沢東の馬鹿げた気紛れの結果であると糾弾している。彼女は毛沢東の「七律・人民解放軍占領南京」を書き換えて、最後の四句で毛沢東を歴史上の恥辱として断罪している。“只応社稷公黎庶、那許山河私帝王?汗慚神州赤子血、枉言正道是滄桑(これは・・・翻訳不能!)”

 学者である印紅標氏が『失踪者の足跡:文化大革命期間の青年思潮』を書いたとき、林昭の資料はまだ発見されていなかった。本書には林昭のことや『星火』の地下出版に関わったメンバーの事柄や観点は収録されなかった。実際、林昭の思想の深さや広さは本書に収録されている大部分の人物より優れている。林昭と比較できるのは、顧准、王申酉、張中暁、魯志文など数えるほどしかいない。たとえば、知識青年魯志文はこう指摘している。中共全体主義政権であり“世界の共通認識である民主的権利や人民の思想や言論の自由の一切を禁止している。また、暴力的な統治に対して反対したり、ただ単に賛同しなかっただけの人々を残酷に鎮圧している。酷いときには大っぴらにテロリズム的手段を利用する。・・・人類を敵視する反動的謬論を大々的に拡散している。たとえば人種的優劣論や反動的血統論、人為的に作られた階級闘争や階級隔離などだ。これによって一部の人々を惑わして籠絡し人民鎮圧の目的を達成しているのだ。この他にも大々的に愚民化政策を押し進めており、奴隷化教育を実施している。奴隷主義によって人々に盲目的服従精神を押しつけ、個人に対する迷信や指導者至上主義の神話を宣揚している。”惜しむべきは、中国共産党の過酷で残虐な統治によって、このような孤立した思想的先駆者たちが互いに結びつき、協力してさらに重厚な思想的成果を生み出すことができなかったことだろう。

徹底的な抵抗を支えたキリスト教の信仰

 『血書』の中で連曦氏はホームズのような探偵の目と心で、これまで知られることのなかった多くの真相を明らかにした。林昭の妹の彭令笵は姉のことを回想する文章を書いているが、当時彼女と姉の関係は疎遠であったため、文章の中に若干の事実誤認が見られる。たとえば、連曦氏は林昭は龍華飛行場で銃殺刑に処されたのではなく、提藍橋監獄内で公開銃殺されたことを明らかにした。より重要なことは、“林昭の謎”・・・つまり、林昭が岩石の溝から飛び出した孫悟空のような超人的存在ではなく、彼女の抵抗のエネルギー源はキリスト教の信仰であったこと、そして彼女の妥協のない決意は、誰も望まない殉教の道を彼女自身が自発的に選んだことによるものであることを明らかにしたことである。

 林昭は少女時代にキリスト教系の蘇州景海女子師範学校の教育を受けている。この学校はアメリカのメソジスト監督教会(南方循法会、1939年以降、南北循法会は衛理公会に併合された)が中国で設立した学校である。連曦氏はアメリカ連合衛理公会の資料室で多くの一時資料を調査している。景海女子師範学校の設立と発展は、キリスト教系の学校が近代中国にもたらした文明開化的役割は無視できないものであることを示している。しかし、連曦氏はキリスト教系の学校と西側宣教師の貢献に対する評価にとどまらず、林昭が一時期キリスト教から距離を置き共産主義に傾倒していった心の動きから、一つの大きな疑問について自省的に考えている。すなわち、二つの異なった思想体系の衝突において、いったいなぜキリスト教の信仰は共産主義に打ち負かされてしまったのだろうか。

 林昭はその最も代表的な例だろう。林昭は景海女子師範学校に入学してすぐに宣教師の導きに従って洗礼を受けている。しかし、洗礼は決して彼女のキリスト教への信仰が盤石になったことを意味してはいない。ほどなくして、彼女は危険を顧みず共産党に参加し、すぐさま中国共産党が設立した新聞専科学校で学ぶことを選択している。父親は彼女に、“青年の純粋な情熱を政治に利用することは残酷なことだ”と言って、共産党を信用するなと警告している。しかし、林昭は聞く耳を持たず、積極的に土地改革運動に身を投じ、家族が引き裂かれてもおかまいなしだった。“活不来往、死不弔孝(生きて会うことはないし、死んで弔うこともない)”と彼女は宣言し、父親が“美国之音(ボイス・オブ・アメリカ)”を隠れて聞いていると政府に密告するなど酷いこともしている。

 あの時代の最も優秀な青年たちにとって、共産主義はなぜキリスト教の信仰よりも大きな影響力を持ったのだろうか。先ず第一に教会や教会系の学校が世俗化、功利主義化してしまっていて、福音よりも世渡りの方が優先されてしまっていたことがあげられる。当時の宣教師や教会系学校の教師たちは、もはや清教徒時代の整然とした観念体系を失っていて、マルクス主義の攻撃の前に為す術もなかった。景海女子師範学校を例にあげると、この学校は多くの上流階級や中産階級の女子学生にとって魅力的であったけれども、親の関心事は子供の職業と結婚であって、子供の精神的成長ではなかった。学校は宗教儀式を教えていたが次第に形ばかりのものになっていた。もう一つは、共産主義が約束した過激なユートピア思想が、教会が教える生温い社会改良主義よりも青年たちを一層強く引きつけたことだ。国民党の腐敗や社会の暗黒面、列強に侵略される中国の現状は、中国の知識青年たちから次第に忍耐と理性を奪っていった。彼らは一刻も早く満身創痍の中国を救い出す処方箋を探しだそうとしていた。そこに共産主義が最もよい処方箋を提供したのである。・・・もちろん、何年かの後に人々は、この処方箋は病を治せないばかりか残酷で致命的なものであることを思い知るのだが。

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 共産主義が財産の私有を禁じていることぐらいは常識でしょう。でもそれは甘い考え方です。共産主義が奪うものは財産だけではありません。あなたの身体も精神も全て自分のものではなくなるのです。人間がどう生きるかは民主集中制の頂点に立つ“指導者”が決めるのです。となれば、あなたに自由はありません。ということは、あなたがどう考えるのかも、どう行動するかも、全て“指導者”が決めるのです。林昭は監獄の中でこの強大な敵とたった一人で闘ったのです。

林昭 Lin Zhao

 要するに中国の幼気な女の子が反右派闘争や文化大革命に巻き込まれて犠牲になったお話だと思って読んだんですよ。「血書 林昭的信仰、抗争与殉道之旅」(連曦著 カ森・連曦訳 台湾商務印書館)という本のことです。

 とんでもない。
 この36歳にして“反革命分子”として銃殺されたこの女性は、監獄の中でたった一人で狂気の毛沢東独裁体制と闘い抜いた驚くべき信念の人でした。想像を絶する闘争ですよ。

 日本人の中でこの女性について知っている人は、いったい何人いるのでしょうかね。今でも中国共産党が抹殺し続けている歴史上の人物なので、ごく数人、多くて数十人ではないでしょうか。大半は中国近現代史の研究者でしょう。

 彼女の生涯について簡単に書くとこうなります。

 1932年、江蘇省蘇州市の比較的裕福な家庭に長女として生まれます。一般的に“林昭(lin zhao)”と呼ばれていますが、本名は彭令昭。父親の彭國彦は教育のある人で行政機関の長に任命されたりしていますが、清廉潔白な人柄が逆に災いして後に無実の罪で投獄されています。母親の許憲民は、中国の女性によく見られる事業意欲の旺盛な人で国民党の中央政界や実業界でも活躍した人のようです。少なくとも中国共産党による「解放」までは。

 つまり林昭は中国の上流階級の家庭で育ったわけです。1947年、彼女はキリスト教系の蘇州景海女子師範学校に入学し質の高い教育を受けます。当時の中国では珍しい「自由」とか「人権」とか、全く新しい近代的な概念を彼女はここで学ぶわけです。ただ、彼女は中国の知識人らしく中国の古典に対して特別な才能を持っていたようですね。この本を読むときに一番苦労したのがそれです。とにかく彼女の残した漢詩の意味が私には理解できないんですよ。

 キリスト教共産主義がどう結びつくのか、私にはよく理解できないのですが、この景海女子師範学校時代に彼女は中国共産党員になるのです。しかし、その秘密活動が学校を通じて国民党政府に伝わり、これを察した中国共産党は党員に蘇州から逃れるように命じます。ところが彼女はその命令に従わず党籍を剥奪されてしまいます。その後彼女はこの一件を後悔してより一層中国共産党の革命闘争に傾倒していくことになります。

 景海女子師範学校での成績がきわめて優秀だった彼女に、両親は大学へ進学してもらいたかったようですが、中国共産党の活動に傾倒している彼女は党のプロパガンダ機関である蘇南新聞専科学校に飛び込みます。そこでも林昭は成績抜群で、女性としても魅力的だったようですね。中国の女性に時々いる、頭脳明晰で自由闊達、性格が明るくはっきりものを言うタイプの女性だったのでしょう。

 しかし、過酷な運命がここから始まってい行きます。時は土地再配分を目的とした農村改革運動まっただ中、彼女は革命の実践に学ぶために農村改革に実行部隊に志願するのです。記録によればこの農村改革によって“悪徳地主”とされた100万から200万の人々が虐殺されています。部隊は食料徴収の任務も負っており、農民の抵抗によって殺される危険もあったあようですね。

 最初は家庭や景海女子師範学校で受けた宗教的、近代的な教育による考え方と、党に逆らうものは殺してもかまわないという中国共産党の革命思想との間に葛藤を感じていた林昭も、やがてそれに慣れていきます。むしろ痛快にさえ思うようになるのです。子供の頃に受けた“小ブルジョア階級的”感覚を振り払うことで、再び中国共産党の隊列の中に戻れたという感激を彼女は感じていたのです。

 わかりますよね。
 これは共産主義特有のカルト宗教的洗脳です。時々思うのですよ、共産主義とは社会科学のお面を付けたカルト宗教だなってね。

 その後「常州日報」で仕事をした後、1954年に北京大学中文系新聞学専業(つまり、中国語学科新聞学専攻)に合格します。この時の感覚について彼女は「党への情熱が冷め、政治にも疲れた」と語っています。そもそも、両親の反対を押し切って蘇南新聞専科学校に飛び込み、農村改革運動に没頭したことについても後に「青年の純粋な情熱を利用して政治を行うことは極めて残酷なこと」と語っています。

 ここで話が終わっていれば彼女は普通の人生を歩めたのかもしれません。

 ところが、1957年から58年にかけて彼女は反右派闘争の「右派」にされてしまうのです。1956年、有名な毛沢東の「百花斉放 百家争鳴」とそのすぐ後に来る「引蛇出洞」に巻き込まれるのです。洗脳が溶けてしまえば自由活発で頭脳明晰な女性ですから、その活動や発言も共産党プロパガンダの枠からはみ出していくのは必然です。そして、毛沢東は社会の中の一定割合存在する反革命分子を打倒せよと命じたのです。

 共産主義社会の中では、そのそのプロパガンダの枠をはみ出すものはすべて「反革命」です。こうして今度は林昭は“打倒される側”としてつるし上げを受ける側になってしまいます。

 すでに蘇南新聞専科学校にいた頃から林昭は結核を病んでいました。1959年、それが悪化したので彼女は母親の元へ戻り上海で療養生活をします。この間、蘭州大学の学生たちと現状の政治状況を批判する「星火」という雑誌の編集に協力します。ちょうど大躍進運動の期間ですね。彼らはこの運動が農村を破壊するバカ騒ぎにすぎないことを見抜いていたのです。ただ、林昭は投稿はしても、積極的ではなかったような感じですね。それがどういう結果をもたらすのかもわかっていたような感じです。

 1960年、「星火」の第二号が完成し出版を予定していたところ、密告によって関係者43名が逮捕され、その内25名が反革命集団のメンバーとして判決を受けます。林昭も1960年10月に投獄されました。以来、彼女は7年間獄中生活を送り、約50万字に及ぶ文章を書き続けます。その内容は直接的表現で中国共産党政権の独裁批判や毛沢東に対する風刺だったのです。そして、この「血書」という書名を見てわかるように、紙も筆も無いときは、彼女は自分の肉体を傷つけて流れ出る血を使ってシャツやシーツなどに書き続けたのです。

 1962年、結核治療のため入院したとき、彼女は中国共産党に民主主義への改革を望むことは無駄なことだと悟ります。そして中国共産党の暴政に再び徹底的に反抗すること決意するのです。同年9月、「中国自由青年戦闘連盟」の綱領と規程を起草し、海外に向けて「我々は無罪である」、「北京大学校長陸平への手紙」を発表します。12月、林昭再逮捕。1965年5月、「中国自由青年戦闘連盟」事件の主犯として懲役20年の判決。

 そして、1968年4月29日、上海提籃橋監獄に収監された林昭は死刑判決を受け、即日銃殺に処されます。享年36歳。

 個人的な感想ですが、この女性は違う時代、違う場所に生まれていれば、実力のある芸術家や事業家、あるいは政治家として成功していた人かもしれないと思いますね。よく見かけるじゃないですか、自分のような平凡な人間には計り知れない内に秘めたエネルギーと才能に恵まれた人です。彼女もおそらくそういう人です。その内からあふれ出るエネルギーと人間の自由を根こそぎ奪い尽くす共産主義の強大な圧力の間で、彼女は肉体も精神も粉々に破壊されたという、そんな感じがするのです。

 私にはとても手の届く女性ではないけれども、一目会って話でも聞きたかったなぁ、なんて思いますよ。

 あの国の、あの体制の中で、いったい何人の有望な若者たちがこんな風に殺されていったことか・・・。

 

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lin zhao

 

ロシアのウクライナ侵略を台湾人はどう見ているのか

 台湾の「民報」サイトに興味深い投稿記事が掲載されていたので簡単に翻訳してみました。2022年3月30日に掲載されたものですね。

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ロシア・ウクライナ戦争の特質と警告
葉俊雄(在米台湾人)

 2月24日、ロシアはウクライナへの侵略を開始、全世界が震撼した。ロシア軍は敵を軽く見ていたが、情報の錯綜や補給の準備不足、戦術は拙劣で制空権の確保も難しく、通信システムも安全ではなかった。一方、ウクライナは軍民ともに国家防衛を決意しており、勇敢に奮戦、高度な非対称戦術を発揮、熟知している地理的優勢を有効に活用し、機動的遊撃戦によって度々ロシア軍を撃破する戦果を挙げている。ロシア軍は“敵を知らず、己も知らず”という低レベルの戦略によって重大な損害を被り、万を越える兵士が戦死した(十数名の高級軍幹部及び指揮官を含む)。軍の志気は落ち、進撃は停滞、ロシア軍の速戦即決の計画は崩壊した。

 ロシアのプーチン大統領は正当な理由のない侵略戦争で世界の平和と安定を大きく破壊し、世界中の人々がこれを憤り非難した。アメリカを中心とした民主主義陣営は波状的に制裁を実施し、その範囲は経済、金融、貿易、空路など多くの領域に及んでいる。たとえば、最恵国待遇の取り消し、外貨準備の使用制限、金融機関の個人資産の凍結、輸出入の制限、領空閉鎖、外資企業のロシア国内での事業停止、原油輸入の禁止など、その対象は上は公的機関から企業、下は個人にまで及んでいる。これら一連の制裁はロシア経済に大きな損害を与えており、ルーブルは大きく下落、インフレの発生、原油輸出の急減少、外貨収入の激減、失業の増加、人々の生活の困窮などといった大きな苦しみをロシアにもたらしている。厳しい制裁は弾の飛び交わない戦争を始めたようなものだ。

 これに対して、ウクライナのゼレンスキー大統領は首都キーフを堅く守っており、国民の志気を大きく高めている。全国民が固い決意を持って果敢にロシア軍に抵抗、海外にいたウクライナ人6万人が帰国して参戦している。さらにゼレンスキー大統領はオンラインで民主主義国の政府要人や国会議員と頻繁に会議を行い、説得力のある感動的な演説で高い評価を勝ち取った。世界各国は次々と軍事、情報、通信、経済、人道などに関する支援を提供しており、これらはロシアの侵略に対する民主主義陣営の団結と協力にもつながっている。

 民間のハッカー組織アノニマスも自分たち独自に攻撃を開始し、ロシアの政府や企業のサイトや情報収集衛星、電力ネットワークの制御システム、鉄道の運行システムなどにハッキング工作を仕掛けている。また、一万名以上の外国人がゼレンスキーの呼びかけに応じて「国際義勇軍」に参加し、ウクライナに向かった。外交、心理、世論、認知、サイバー空間、情報、科学技術、電子などの領域でも戦闘が始まっている。

 今回の戦争はこれまでの戦闘とは大きく異なっており、注意すべき点が多い。現代の戦争はすでに単なる軍隊どうしの戦いというわけではない。当然、先進的武器(無人機やミサイル、衛星)は依然として必要条件だが、戦争の形態はさらに複雑となり、全体的かつ多様性をもち、全てが繋がっている。

 台湾政府上層部は将来の戦争の特質を深くかつ全面的に研究し、国家の総体的戦略方針と目標、各部署の行動について厳粛に検討するとよいだろう。そして早期に研究開発、機関設置、訓練、強化を進めるべきだ。以下いくつかの簡単な意見を提供するので政府関係者の参考にしてもらいたい。

一、国家の安全を守ることは、もとより国防部の使命であり、その他の政府機関(たとえば経済、財政、科学技術、デジタル、交通など)も、戦時における役割に責任を負わなければならない。戦争が発生する確率がたとえ小さくても、それがもたらす被害はきわめて大きく、コストも非常に高くつくのだから、各政府機関は戦争をリスク管理の一つとして扱い、その対策を策定しておく方がよいだろう。(実際的なリスク評価をしてこなかった機関は速やかに行うべきだ)たとえば、要となる機関設備の強靱であるか、戦備や民生物資は十分か、通信システムは多様であるか、エネルギーと輸送システムは防御されているか、情報の安全性は確保されているか、担当者の技術と素質は養成できているか、などである。

二、国家防衛に対する国民の決意は戦争に勝つための鍵となる非常に重要な要素だ。全国民が国防戦力となり、危機に対して備えるべきである。私たちが望む「国民皆兵」の役割を達成するには、有効で実行可能な行動方針や物資、時間、指標を持つ必要がある。そして強大な侵略圧力を克服したいと思う。これはパラダイムシフトの具体的実践となるだろう。

三、友好国の支持と援助も重要な支えとなる。台湾は世界の生存システムの中で、先ず代替不可能な価値を持たなければならない(半導体産業のように)。そして積極的に国際社会に参与し貢献するのだ。たとえば、災害支援、建設、貧困解決等の国際的業務に協力して、世界の中で無くてはならない地位を築くのだ。人を助ければ必ず人から助けられる。台湾は必ず信頼できる多くの同盟国を得ることができるだろう。

四、台湾は平和的非暴力的手段によって独裁体制から民主主義体制への転換を成し遂げた。この誇るべき成果は世界の民主主義の手本であり、政治的自由度のランキングで第7位という地位を達成している。自由と民主主義を守ることは民主主義陣営共通の使命であり、現在のウクライナだけではなく、かつてはハンガリーポーランドチェコ・スロバキアなどもこの闘いを経験している。自分の国のためだけではなく、自由と民主主義という崇高な理想を守るために闘ったのだ。独裁者の威嚇と脅迫に対して、台湾は恐れることなく、民主主義陣営の側に立って自由と民主主義の体制を堅く守り続けなければならない。外的に厳しい侵略を受けたとき、この堅い信念と意志によって、必ずや民主主義陣営の「集団的防衛」の支持と援助を得ることができるはずだ。

五、後方支援と補給は軍隊の継戦能力に必要なものであり、補給を絶たれた部隊は、弾薬食料を失って悲惨な状況に陥ってしまう。台湾は島国であり四方を海に囲まれているので難攻不落である。台湾海峡によって中国から隔離されている(幅は約130から180キロ)。中共が軽率にも世界の安定を破壊し国際関係のルールを破って台湾侵略を画策した場合、我が軍は台湾海峡においてその補給線を破壊することができる(同盟国軍の協力が有ればさらによい)。我が軍は本島及びボウコから出撃、南北から連携機動で突撃し台湾海峡で共産軍の補給をブロック、さらに前後から共産軍を前後から挟み撃ちする。台湾海峡の戦いはウクライナの陸戦とは全く異なるので、異なった戦略・戦術の考え方が必要となる。これについて、我が国の国防当局はボウコ(及びその他の離島)の戦略的地位を重視し、その軍事的展開を強化したらよいだろう。同時に適切な海戦用の武器を慎重に選ばなければならない。たとえば、軽便で高速機動が可能な高性能艦船、軍用無人機、ミサイル、魚雷、戦闘機、電子作戦用の装備だ。

【民意論壇】俄烏戰爭的特質與警示 | 民報 Taiwan People News

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 久しぶりの翻訳なので多少自信のない部分もありますが、意味的には間違っていないと思います。私が注目しているのは二番目の意見ですね。国民に国防意識がなければ、先ず土台がないということなので、どんな武器があろうと、どんなに強力な同盟国があろうと、戦争に勝つことはできません。というか、相手に侵略を断念させることができません。

 いずれにしても、中国という強大な敵を目の前にしている台湾人の考え方は日本人よりはるかに具体的ですね。日本の方がよっぽど心配ですよね。

ウクライナに勝利を! その二

 ロシヤによるウクライナ侵略戦争の原因や背景については突拍子もない陰謀論も含めていろいろ言われているけれども、その真実が解るのはおそらく数十年後の事だと思いますね。だから私としては安易にマスメディアやネットで言われていることに飛びつきたくないのです。

 何しろ人間というものは一旦ある見方を信じてしまうと、それに反する情報に接しても認知的不協和を起こして拒絶してしまいます。そうすると見えるものも見えなくなるし、考え方の幅も狭まってしまいます。言ってみればカルト宗教の信者のようになってしまうのです。

 私の情報源は日本のマスメディアもありますが、中文が読めるので中国を除く中文メディアでも情報を採っています。中文メディアもいろいろありますが、最初から情報操作を前提にして作られている大陸系のメディアは無視します。どう言うわけか日本のマスメディアより自由中華圏のメディアの方が情報が早いように思いますね。

 ネットについてはできるだけ現地のものを見ようと心がけていますが、ロシア語もウクライナ語もわからないので、YOUTUBEの動画などは機械翻訳で見るしかありません。動画の表題はともかく音声の機械翻訳は残念ながらほぼ役に立ちませんね。雰囲気だけは伝わりますが、多分にプロパガンダ的要素が入っているのは仕方ありません。戦争ですからね。

 以上のような情報源から私なりに理解した現状ですが、やはりウクライナ側の対応は見事ですね。とにかく軍だけでなく国民全体の冷静さには驚くばかりです。肝が据わっているというか、こういう事態に対する組織的、精神的準備が十分にできていたのでしょう。ほとんどパニック状態が起きていないことにウクライナ国民の覚悟の程を感じることができます。

 ウクライナ軍指導部が最初から予想していたのかどうかはわかりませんが、ロシア軍の開戦後数日間の進撃に対する反撃は、おそらくほぼ完璧だったのではないでしょうか。予想進撃路の周囲に展開するウクライナ軍はロシア機甲部隊の最も強力な先頭集団をそのままやり過ごし、その補給線が延びきったところで、ロシア軍補給部隊を壊滅させ補給線をズタズタにしてしまうというものですね。

 ロシア軍が採った戦術は非常に古典的な電撃戦だったように見えます。湾岸戦争イラク戦争では、数週間かけて念入りに航空攻撃やミサイル攻撃でイラク側の抵抗拠点や物資集積地点を虱潰しに潰していたのを覚えていますが、今回のロシア軍はとにかくスピードで押し切ろうとしたような感じです。これは何となく第二次世界大戦のやり方に似ていますね。

 これはウクライナ側にとっては非常に幸運なことで、進撃路周辺の兵士たちは爆撃やミサイルに怯えながら、数週間防空壕の中で堪え忍ぶ必要がなかったことになります。当然人的損失も物質的損失もほとんどなかったに違いありません。彼らは心おきなくロシアの補給部隊の装甲車両やトラックを破壊し、焼け残れば積載してあった武器や弾薬、食料を奪うこともできたでしょう。

 そういえばそういう映像はたくさん公開されていますよね。人によっては全てフェイクだねつ造だということなのでしょう。しかし、彼らが採った戦術から考えれば、そのような映像を採ることは至って簡単だったはずです。たぶんロシア軍の補給線の至る所でそのような状況が展開されていたはずですから。

 ロシア軍機甲部隊の先頭集団としては、最初の数日間の快進撃で、あっという間に主要都市のいくつかを制圧して戦争は終わると思ったとしても不思議ではありません。ウクライナ側はおそらく最初の内は全く無抵抗だったはずですから。しかし、補給線が伸びきった頃に後ろの方で後続の部隊が手ひどく攻撃され始めます。

 しかし、ロシア軍の先頭集団の第一目的は一刻も早く目標の都市へ進撃することです。したがって後続部隊の応援のために兵力を回すことはできません。指揮官はイヤな予感はしたでしょうね。ウクライナ側は虚を突かれたのではなく準備万端で迎撃してきたのかもしれないと感じたかもしれません。その通り。虚を疲れたのはロシア軍の方だったわけですよ。

 ただ、ロシア軍の先頭集団はあっという間に主要都市に到達します。もしウクライナ側に戦意がなければ、市民は集団で逃げ出しウクライナ兵もそれに紛れて脱出をはかるでしょう。最悪の市街戦も起きることなくゼレンスキー大統領は捕らえられるか、場合によれば裏切った味方に殺されてこの戦争は終わったかもしれません。

 ところが主要都市の市民がパニックに陥って逃げ脱す現象が起きていたという話は全く聞きません。それどころか市民は様々な形で防衛戦への協力を組織的に行っていたのです。日常の仕事もやりながらです。こんなことはウクライナ国民に確固たる国民意識がなければ不可能なことです。今の日本人にこんなことできますかね。正に敬意に値する国民ですよ。ウクライナ人は。

 こうなるとロシア軍はいくら装備がよくても攻め倦ねることになります。何しろ都市市民に対する無差別攻撃をする以外に相手の戦力を挫くことは不可能になるからです。しかし、いくら何でも情報環境の発展した21世紀の世界で公然と市民に対する虐殺行為を行えば確実に世界全体を敵に回すことになるでしょう。でも、プーチンが折れない以上、ロシア軍それをやらざるを得なかったわけです。

 いくつかの条件があると思いますが、ウクライナ側はロシア軍の目標を喪失させて再反撃するという手が使えると思いますね。つまり、キエフをはじめいくつかの主要都市を無血開城してしまうという手です。ゼレンスキー大統領も一瞬姿を眩ませます。「逃げた」でも「殺された」でもいいので、ロシア側に戦争が終わったと信じさせることが重要ですね。少なくとも兵士たちの間では。

 その間に、再びロシア側の補給線上の敵を徹底的に破壊する準備を進めておき、ロシア軍の志気が十分に弛緩した頃に一斉攻撃を仕掛けるのです。いなくなったはずのゼレンスキー大統領も居場所不明のまま声明を発表して軍と国民の志気を鼓舞するんです。ロシア軍は狂ったように動き回って散在するウクライナ軍の拠点を攻撃するはずですが、むしろかえって個別撃破されてしまうでしょう。つまり、壊滅です。

 まぁ、これは夢想にすぎませんが、結局、イラクアフガニスタンアメリカ軍の最後もそんな感じだったんじゃないですか。アメリカはそれでも民主主義の国なんで、壊滅する前に軍隊を撤退させることができましたが、プーチンというボケ老人の独裁国家にそれができるのでしょうかね。

 核戦争だけは起きませんように・・・。
 

ウクライナに勝利を!

 恥ずかしながら、今度のロシアによる侵略戦争で初めてウクライナが独立国家だったことを知ったんですよ。ウクライナの人たちには大変申し訳ないのですが、興味が無ければ、まぁ、こんなものですわ。すみません!
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 フィンランドは一九一七年の十二月六日、ロシア十月革命の混乱の中でロシア帝国からの独立を勝ち得た。しかし、国内ではソ連に共鳴するフィンランド赤衛軍と、フィンランド白衛軍が深刻に対立、流血の戦闘を続けていた。ソビエト政府はフィンランド極左分子を煽る一方、影に日向にフィンランド赤衛軍を支援した。独立宣言後もフィンランド国内に居座っていた四万ものソ連軍の支援を受けた赤衛軍は、瞬く間に首都ヘルシンキを含むフィンランドの三分の一を制圧、フィンランド共和国政府は首都をボスニア湾に臨むバーサに映さざるを得ない事態となった。
 一方、バーサに追い詰められたことから、一時国外に亡命していたフィンランド白衛軍司令官マンネルヘイム将軍は、一九一八年一月、再びバーサに上陸、フィンランド白衛軍の将兵二千名を率いて、タンペレの近郊で赤衛軍を撃破した。
 その後、ソ連が主張するように、ドイツ帝国のゴルツ将軍率いるドイツ軍一個師団の支援を受けたフィンランド白衛軍は国内から赤衛軍を一掃した。
 さて、その後まもなくフィンランド政府の反動派はフィンランド湾の島々とカレリヤ地峡に対ソ戦のための橋頭堡を建設し始めた。
 と、ソ連の戦史は非難する。
 その通り、内戦の原因を作り、それを煽りたてるような隣国を誰が信用するものか!
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 一時期フィンランドという国に興味を持って色々と調べていて見つけたのが『雪中の奇跡』(梅本弘著 大日本絵画)という本でした。上の一節はこの本のP13「我々は屈服しない」という章の一部です。
 それから約20年、圧倒的な軍事力による圧力でバルト三国を呑み込んだソ連は、フィンランドに対してカレリヤ地峡の防衛戦の撤去とフィンランド領土2700平方キロの割譲を要求しフィンランド政府を追い詰めていきます。そんな無茶な話、フィンランド側が受け入れられるわけないじゃないですか。
 1939年11月26日、カレリヤ地峡の国境線で小さな小競り合いが発生、これを口実にソ連は不可侵条約を一方的に破棄し侵略を開始。しかし、実際にはこの小競り合いの前にソ連は国境付近に兵力45万(54万の説も有り)、砲1880門、戦車2384両、航空機670機の戦力を集結させていたんですよ。やる気満々ですよ。
 当時のフィンランドの人口は400万人弱。この人口では10万の兵力を維持するのも大変なことです。もちろん重火器、戦車、航空機の全てが不足。世界中があっという間にフィンランドソ連の軍事力に屈してしまうだろうと考えたって無理はありません。
 ところが、まぁ、具体的な戦争の経過についてはご自分で調べてもらえばと思いますが、フィンランド側が軍事的には圧倒的に勝利してしまうのです。政治的には領土の一部を奪われるという敗北で終わりましたが、全土を制圧するというスターリンのもくろみを彼らは完全に撃破してしまったのですよ。
 この時、フィンランドの兵士の中には日本の三八式歩兵銃で戦った兵士もいたんですね。
 結局、1941年の独ソ戦の開始と共にフィンランドソ連に対して宣戦布告。ドイツが敗退していくにつれてソ連との和平交渉が始まり、厳しい条件で休戦協定を結びますが、いずれにしてもフィンランドは自国の独立を守り通すのです。
 しかし、ネオナチどころか、本物のナチスドイツを国内に引き入れてまでソ連と戦わなければならなかったところに、この時代にこの国の独立を維持することの困難さを感じますよね。
 でも、それが国家の独立というものなんじゃないでしょうか。
 ウクライナも色々と言われていますが、上品でおきれいな国でなければ独立戦争を戦っちゃいけないんでしょうかね。
 きれい事じゃすまないんですよ、独立のために戦うってことはね。

北京冬季オリンピックについて

 中共政府は1988年からウイグル人に対して強制的な計画出産政策を強制している。つまり、結婚後3年間は子供を作ってはいけない、第一子誕生後はその子供が3歳に達するまで第二子を作ってはいけない、そしてウイグル人の女性は結婚前は避妊リングによる避妊手術を受けなければならならず、そうしなければ結婚証明を発行してもらえない等々である。


 各クラスの出産計画委員会の幹部や郷長・村長が、もし避妊リングの手術を受けていない女性を発見したり、手術を受けたにもかかわらず妊娠した女性を発見したならば、犯罪者と同様にトラクターやトラック、警察車両や救急車を使用して、その女性を付近の医療所に移送し、医者に対して堕胎手術を命じなければならない。これは出産まで数日となっている胎児も例外ではない。

 ウイグルから海外へ脱出してきた医師たちの供述によると、「違法妊娠」した女性たちに対する堕胎手術はきわめて残忍なものである。もし胎児が妊娠7~8ヶ月となっていた場合、堕胎手術はとても困難なものとなる。医師たちは一種の針のようなものを子宮に差し込んで、先ず胎児を母親のお腹の中で生きたまま破砕し、その後でその肉片を取り出していくのである。この「違法妊娠」には、結婚後3年以内にできた子供、第一子誕生後3年以内にできた第二子、そして第三子以上の子供が含まれている。

 さらに受け入れ難いのは、ある地域では妊娠中のウイグル人女性に対して、本人の同意が無いまま医師が避妊施術を行い、二度と子供が産めない体にしてしまうことさえあるのだ。

 2004年までに、少なくとも100万に達する嬰児がこのように殺され、数十万の農村女性が劣悪な医療条件の下での強制堕胎手術によって命を落としたり、心や体に重大な傷を負っている。
(「東突厥斯坦 維吾爾人的真実世界」HUR・TANGRITAGH著 前衛出版社 P141~P142)

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 久しぶりの投稿で、いきなりこんな話を載せるというのは、まぁ、どんなものかなぁ、とは思いましたが、北京冬季オリンピック開催後にふさわしい話題ではないかと思い、思い切って載せました。

 オリンピックに参加する各国の選手たちの真剣な闘いについて、どうこう言うつもりはありません。私だって彼らの素晴らしい活躍に感動するし、日本の選手が上位にくい込みメダルを獲得すれば嬉しいんです。

 でも、中華人民共和国でオリンピックを開催するということの裏には、どうしてもこうした暗い側面が存在していますよね。まぁ、確かにどの国にも問題はあるし暗い側面も存在しますが、この国のその暗さは度を超して際だっていますよね。

 この本が書かれたのは2010年前後ではないかと思います。台湾での出版は2016年です。それから10年、チベットの状況はますます酷くなり、南モンゴルの状況も悪化しているようです。香港は世界が見守る中で大弾圧が繰り広げられ、台湾も何時侵略を受けるかわからない状況です。

 しかし、何よりも大多数を占める漢民族自体が中共の支配の中で数千万人も虐殺されてきたのではないですか?

 はたして今のような状況を維持したままで「中国人」であることに、いったいどんな誇りと夢が持てるのでしょうかね。