林昭 Lin Zhao その三

 余潔さんが「自由亜州電台(ラジオ・フリー・アジア)」に寄稿した文章の後半部分です。くどいようですが、私の翻訳は必ずしも正確ではないので、中国語がわかる人は原文を読んだ方がよいと思います(https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wenyitiandi-cite/yj-01052022131024.html)。

 私は1989年6月4日の天安門事件を直接見た人間なので、「中国人」を一括りにしてどうこう言うのには若干の抵抗感があります。もちろん便宜的に「中国人は~~」という表現をすることはありますが、その範疇に入らない中国人が山ほどいることは前提です。日本人にも一般的傾向というものはあると思いますが、一括りにしてどうこう言われたら、誰でも反感を持つのではないでしょうか。

 私にとって「林昭」の発見は衝撃的でした。たぶん、彼女の叫びは数多いる良心的な中国人の思いを代表しているのではないかと思うんですよ。いかがでしょうかね。最近都市封鎖を経験した上海人なら解るんじゃないでしょうか。

 林昭を描いた映画があるようなんですよ。主演はハンナ・ウーさんという女優のようなのですが、雰囲気的には合ってますかね。ただ、言語が英語なんですよ。たぶん、生粋の中国人が見たら、どこか違和感がある描き方になってるかもしれません。いずれ、生粋の中国人の手で彼女の映画が作られると思いますが、その時こそ中国に自由と民主主義が開花しているはすですね。

 4月29日---林昭遇難53週年忌日。傳記故事片《五分錢生命》預告片(Movie "5-Cent Life" Trailer)
 https://www.youtube.com/watch?v=rwtCfRVM1lg

 それでは訳文の後半です。
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 林昭の“迷途知返(さまよった末に正しい途にたどりついた)”は、北京大学で陰険で悪質な反右派運動を身を以て経験したためだ。その後彼女は蘭州大学の張春元ら右派の友人たちと知り合い、彼らから農村で発生している想像を絶するような悲惨な大飢饉のことを知ることになる。彼らは地下出版物「星火」を印刷し、大躍進政策の災難や毛沢東による人民奴隷化政策を告発していた。この時林昭の心に、かつて教会系学校で受けた“自由、平等、博愛”のキリスト教精神が蘇り、キリスト教徒ととしての良心を取り戻した。林昭はアウグスティヌスカルヴァンボンヘッファーの著作を読む機会はなかったし、二千年に及ぶカトリシズムや歴代聖徒の豊富な精神的系譜を授かったこともない。しかし、彼女は獄中の極限状態の中で直接神の言葉の恵みを受け取ったようだ。つまり、“真理によって自由を獲得”したのだ。まさに彼女が獄中で書いた手紙の中で宣言しているように、“私の命は神のものだ・・・もし神が私を必要とするなら私は生き続ける、きっと生き抜くことができる。もし神が私を自覚的殉教者にしたいのならば、私も心から感激してその栄光を賜りたい!”もし真理の光がなければ、彼女は自分一人の力に頼るしかなく、残酷な刑罰に耐えることも死を受け入れることもできなかっただろう。

 多くの人がフランスの“聖女ジャンヌ・ダルク”になぞらえて林昭を“聖女”と呼んでいる。しかし、林昭は自分を決して超越的な存在とは思っていなかった。彼女は「私はファッシスト共産主義の悪魔たちから自分の基本的人権を取り戻すことを堅く決意している。なぜなら私は一人の人間だからだ!一人の独立した人間として、私は生まれながらに持っている、そして神の与えたもう完全な人権を享有する権利を本来持っているのだ。」連曦氏が著したこの伝記の本質的価値は、林昭を終始人間的な感情や欲望を持ち、頑固で一途で欠点のある一つの生命体として研究し表現していることである。林昭の人生の輝きを描くと同時に言葉の背後にある闇の部分にも光を当てている。

 林昭が母親に宛てた手紙には高邁な理想論を記したものではなく、江南地方のグルメ料理を熱心に並べたてているものがある。「私にこんなの作ってよ、お母さん、私食べたいの。柔らかくなるまでじっくり煮込んだ牛肉や羊肉、豚の頭の煮込み、豚油の煮凝り、牛筋の焼いたの、鶏肉か鴨肉を焼いたの、お金が足りなかったら誰かに借りてね。魚も無くてはだめよ、塩漬けのタチウオ、新鮮なマナガツオ、ケツギョは丸ごと一匹、これを蒸してね。フナのスープにコイの蒸し焼き。全部蒸したの、焼いたのは要らないわ。それに魚の干物でご飯を食べたい。月餅、お餅、ワンタン、水餃子、春巻、焼餃子、ヤキソバ、粽子、団子、臭豆腐干、パン、クッキー、フルーツケーキ、緑豆ケーキ、酒醸餅、カレーライス、油球、ロンドンケーキ、開口笑。糧票(食料チケット)が足りなかったら誰かに恵んでもらってね。・・・」林昭は自分の大好きな食べ物やお菓子を滔々と並べ立てて、わざと母親を困らせるようなことを言っている。文革の狂騒の中で、自分自身の生活でさえままならない母親が娘のためにこんなにもたくさんの贅沢な食べ物を準備できるはずなどなかった。仮に何とかできたとしても、監獄の中に送ることは不可能だっただろう。林昭は面白がって記憶の中のグルメ料理を書いて見せただけなのかもしれない。これは監獄の中で極度に貧しい食生活おくる人間にとっては当たり前のこととも言える。しかし林昭は、あるいはもっと深い意味を託していたのかもしれない。老練なマスコミ人である朱学東氏は、『林昭 “斎斎我”的背後』という文章の中でこう指摘している。蘇南地方の呉語を話す地域では、“斎斎”の発音は“zaza”となり、献祭(祭り捧げる)という意味がある。つまり儀式的に重々しく敬い食べ物を捧げるという意味であり、この言葉の背後に泰然と死と向かい合う彼女気持ちが現れているというのだ。

 獄中では極めて限られた情報しか得られなかったため、林昭の政治的判断は完全に正確であったとは言えない。たとえば20世紀後半のアメリカにおいて、ケネディは先見の明のある大統領でも信念のある政治家でもなかったが、林昭は中国政府メディアが批判的に取り上げたケネディの断片的な言葉から、ケネディは第一級の偉大な人物であると推定している。1962年病気治療のために保釈されていた期間中、彼女は「人民日報」に掲載されたケネディベルリンの壁での講話を読んで感激し、“たった一人でも奴隷的状態に置かれている人間がいるのであれば、全人類が自由であると言うことはできない”という言葉を引用して、ケネディを「偉大な政治家であり、偉大なアメリカ人」であると賞賛している。1963年11月、林昭はケネディが暗殺されたというニュースを新聞で知り、「深く激しい哀悼と悲愴感」を文章で表現している。

 本書は相当なページ数を割いて、これまで人々から無視されてきた獄中の林昭の“精神的逸脱”の真実を描いている。当時上海市の党委員会書記だった柯慶施を、彼女は陰の救世主、精神上の恋人と考えていた。情報が限られていた上に、柯慶施は上海市民に人気があったので、彼が毛沢東の熱烈な地方支持者であることなど彼女には知る由もなかった。毛沢東は自分より若い彼を“老柯”と呼んだりしていたが、それはおそらく柯がソ連留学時代にレーニンに会ったことがあるからだろう。林昭は獄中で蜃気楼でも見ているかのように、文革前に病死した柯慶施が自分の無実を毛に訴ええたため逆に毛に謀殺されてしまったものと思っていた。彼女は柯の位牌をシャツの上に血で描きその霊を清めた。この儀式によって柯を共産党の党籍から離脱させ、彼の魂が主によって救済されるものと考えたのだ。演劇の脚本のような『霊偶絮語』という作品の中で、彼女は女性主人公としての自分と柯との冥婚(死後の婚姻)を描いている。これについて連曦氏はこう言っている。「このような文章を書くことによって彼女は孤独な監獄生活を幻想的な世界に変えていったのだろう。そこでは彼女にとって親しい二人の死者を自由に呼ぶことができ、いつでも話をすることができたのだ。そうやって自分を慰めていたのだろう。」彼女のことを崇めている後生の人々や研究者は、林昭の間違った判断や妄想を隠蔽すべきではない。林昭のこの“精神的逸脱”から、むしろ私たちは林昭が獄中で受けた非人道的な扱いの酷さを想像することができるからだ。ボンヘッファーナチス強制収容所での境遇は林昭よりも遙かにましなものだった。この事実から中国共産党の残虐さと邪悪さはナチスなど足下にも及ばないものだと反証することができるだろう。

 林昭は“異民”という表現で自分自身と、毛沢東時代に政治的迫害を受けた被害者、つまり歴史上の反革命分子、地主、右派分子、現在の反革命分子とその家族たちを定義している。「彼ら異民たちはインドのカースト制度における非可触賤民よりもさらに貶められている」と林昭は指摘している。

 林昭の家族は全て“異民”だった。彼女の父親、彭国彦は北洋政府時代に東南大学を卒業したエリート人材で、卒業論文のテーマは『アイルランド自由邦憲法述評(?)』だった。その後彼は短期間だが県長を勤めたりしている。共産党が実権を握った後は“歴史反革命分子”とされ、その罪を認めなかったため“頑固分子”の烙印を押された。そして、1960年11月23日に服毒自殺をしている。彼女の母親、許憲民は社会活動家であり企業家でもあった。国民党南京政府の国民大会代表に選ばれたこともある。その後考え方が左翼的になっていったが、中国共産党の政治運動による迫害から逃れることはできなかった。林昭が銃殺された後、彼女は電車に飛び込んで死のうとしたが死にきれなかった。苦しみながら1975年まで生き続け、服毒自殺。一家三人の運命は林昭の言うとおり「私たち中国の無数の犠牲者たちは、その尊い命を捨て去って、共産党の悪魔のような全体主義的暴政による生命に対する汚辱と弾圧に決然と抵抗しているのだ!」

 林昭の資料は中国共産党によって未だに極秘とされ、対外的に公開されていないため、現在でも監獄職員や獄中の友人などによる林昭の獄中生活の具体的な様子についての証言を探し出すことができない。連曦氏は林昭が残した獄中の文章だけを根拠に、上海提藍橋監獄の生活の情景を再現するしかなかった。十年以上前、私は字跡がぼやけてしまった獄中文書のコピーを手に入れることができた。しかし、中国に戻った際に北京空港の税関に没収されてしっまった。私は弁護士を頼って何度も税関と交渉し、やっとの思いで取り返すことができた。中国共産党の監獄はまるで地獄のようなところで、彼らは監獄に関する情報を厳重に秘匿している。おそらく中国共産党政権が崩壊したとき、はじめて林昭の資料と監獄内部の情景が明らかになるだろう。将来、連曦氏がそれらの資料を読むことができれば、もしかしたら本書の続編が書かれることになるのかもしれない。

 林昭が銃殺された後、家族はその遺体を蘇州郊外にある霊岩公墓に葬ったという。私は中国を離れる前に林昭の墓に参謁するために赴いたことがある。公墓のある山の麓には参観客を林昭の墓に案内する仕事を兼業としている現地の人たちがいた。“案内料”は決して安くはなかった。おそらく林昭の墓を参観するために訪れる人が絶えることはないのだろう。もはや林昭の墓は民主主義の聖地となっているのだ。しかし、中国の民衆は未だに魯迅の小説『薬』に描かれた血塗れの饅頭を喜んで食うという性質から脱してはいないらしい。まさに林昭が生前に哀嘆したように「この奴隷制度の中で生きる人間たちは・・・なんと憎むべきか!」

 中国の現代史は退歩の歴史だ。私が中国を離れて何年も経たない内に、林昭の墓が厳重な警備を要する“国安重地(国家保安上の重要地点)”に指定されたと聞いた。現地の警察は墓の周囲に大量の監視カメラを設置し、参観に訪れた人々を厳重に監視しているという。林昭の墓地は趙紫陽と同等の待遇を受けているわけだ。林昭の命日に参観に訪れる多くの人々が警察に暴力的に阻止され、暴行され、拘束されているという。林昭は生きている間は“異民”となり、死んでからは“異鬼”となったのだ。中国共産党は彼女を生かしてはおかなかったが、死んだ後も安眠はさせないつもりらしい。これはおそらく中国共産党劉暁波の家族にその遺骨を海に散骨させたのと同じ理由によるものだろう。

 連曦氏は、すでに過ぎ去った過去の出来事を述べているのではない。林昭の物語の新しいバージョンが現在でも中国で繰り返されており、林昭を虐殺したその体制は現在も活動をやめていないのだ。武漢肺炎の真実を暴露した民間ジャーナリストの張展氏は今も林昭と同様に獄中でハンガーストライキをしている。湘西郷村の女性教師李田田氏は、たった一言言論の自由を支持すると言っただけで、林昭と同様に精神病院に閉じこめられている。新疆大学の女性教授で人類学者のラヒラ・ダウト氏はウイグルの民俗と民族誌について研究したために“民族分裂主義”の罪名で秘密裏に重刑を受けている(刑期は外部に知らされていない)。政府に批判的な法律学許志永氏の友人である李翹楚氏は、獄中の友人に対する虐待を批判しただけで“国家政権転覆煽動”の罪で逮捕され、獄中で虐待され重度の幻聴を病んでいる。彼女たちは皆新しい時代の林昭ではないか。

 野火焼不尽、春風吹又生。このように次々と現れる“異民”たちは、最後にはこの東亜の大陸の暗闇に自由と正義をもたらしてくれるに違いない。
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 二週間ほど前から『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦」』を読み始めました。第2巻と第3巻は注文中です。著者はイリシャット・ハッサン・コクボレさん。以前youtubeで彼の動画を見たことがありますが、非常にわかりやすい中国語でありがたかったです。ウイグルについても勉強しないとね、何しろ知らないことばかりだし。