林昭 Lin Zhao

 要するに中国の幼気な女の子が反右派闘争や文化大革命に巻き込まれて犠牲になったお話だと思って読んだんですよ。「血書 林昭的信仰、抗争与殉道之旅」(連曦著 カ森・連曦訳 台湾商務印書館)という本のことです。

 とんでもない。
 この36歳にして“反革命分子”として銃殺されたこの女性は、監獄の中でたった一人で狂気の毛沢東独裁体制と闘い抜いた驚くべき信念の人でした。想像を絶する闘争ですよ。

 日本人の中でこの女性について知っている人は、いったい何人いるのでしょうかね。今でも中国共産党が抹殺し続けている歴史上の人物なので、ごく数人、多くて数十人ではないでしょうか。大半は中国近現代史の研究者でしょう。

 彼女の生涯について簡単に書くとこうなります。

 1932年、江蘇省蘇州市の比較的裕福な家庭に長女として生まれます。一般的に“林昭(lin zhao)”と呼ばれていますが、本名は彭令昭。父親の彭國彦は教育のある人で行政機関の長に任命されたりしていますが、清廉潔白な人柄が逆に災いして後に無実の罪で投獄されています。母親の許憲民は、中国の女性によく見られる事業意欲の旺盛な人で国民党の中央政界や実業界でも活躍した人のようです。少なくとも中国共産党による「解放」までは。

 つまり林昭は中国の上流階級の家庭で育ったわけです。1947年、彼女はキリスト教系の蘇州景海女子師範学校に入学し質の高い教育を受けます。当時の中国では珍しい「自由」とか「人権」とか、全く新しい近代的な概念を彼女はここで学ぶわけです。ただ、彼女は中国の知識人らしく中国の古典に対して特別な才能を持っていたようですね。この本を読むときに一番苦労したのがそれです。とにかく彼女の残した漢詩の意味が私には理解できないんですよ。

 キリスト教共産主義がどう結びつくのか、私にはよく理解できないのですが、この景海女子師範学校時代に彼女は中国共産党員になるのです。しかし、その秘密活動が学校を通じて国民党政府に伝わり、これを察した中国共産党は党員に蘇州から逃れるように命じます。ところが彼女はその命令に従わず党籍を剥奪されてしまいます。その後彼女はこの一件を後悔してより一層中国共産党の革命闘争に傾倒していくことになります。

 景海女子師範学校での成績がきわめて優秀だった彼女に、両親は大学へ進学してもらいたかったようですが、中国共産党の活動に傾倒している彼女は党のプロパガンダ機関である蘇南新聞専科学校に飛び込みます。そこでも林昭は成績抜群で、女性としても魅力的だったようですね。中国の女性に時々いる、頭脳明晰で自由闊達、性格が明るくはっきりものを言うタイプの女性だったのでしょう。

 しかし、過酷な運命がここから始まってい行きます。時は土地再配分を目的とした農村改革運動まっただ中、彼女は革命の実践に学ぶために農村改革に実行部隊に志願するのです。記録によればこの農村改革によって“悪徳地主”とされた100万から200万の人々が虐殺されています。部隊は食料徴収の任務も負っており、農民の抵抗によって殺される危険もあったあようですね。

 最初は家庭や景海女子師範学校で受けた宗教的、近代的な教育による考え方と、党に逆らうものは殺してもかまわないという中国共産党の革命思想との間に葛藤を感じていた林昭も、やがてそれに慣れていきます。むしろ痛快にさえ思うようになるのです。子供の頃に受けた“小ブルジョア階級的”感覚を振り払うことで、再び中国共産党の隊列の中に戻れたという感激を彼女は感じていたのです。

 わかりますよね。
 これは共産主義特有のカルト宗教的洗脳です。時々思うのですよ、共産主義とは社会科学のお面を付けたカルト宗教だなってね。

 その後「常州日報」で仕事をした後、1954年に北京大学中文系新聞学専業(つまり、中国語学科新聞学専攻)に合格します。この時の感覚について彼女は「党への情熱が冷め、政治にも疲れた」と語っています。そもそも、両親の反対を押し切って蘇南新聞専科学校に飛び込み、農村改革運動に没頭したことについても後に「青年の純粋な情熱を利用して政治を行うことは極めて残酷なこと」と語っています。

 ここで話が終わっていれば彼女は普通の人生を歩めたのかもしれません。

 ところが、1957年から58年にかけて彼女は反右派闘争の「右派」にされてしまうのです。1956年、有名な毛沢東の「百花斉放 百家争鳴」とそのすぐ後に来る「引蛇出洞」に巻き込まれるのです。洗脳が溶けてしまえば自由活発で頭脳明晰な女性ですから、その活動や発言も共産党プロパガンダの枠からはみ出していくのは必然です。そして、毛沢東は社会の中の一定割合存在する反革命分子を打倒せよと命じたのです。

 共産主義社会の中では、そのそのプロパガンダの枠をはみ出すものはすべて「反革命」です。こうして今度は林昭は“打倒される側”としてつるし上げを受ける側になってしまいます。

 すでに蘇南新聞専科学校にいた頃から林昭は結核を病んでいました。1959年、それが悪化したので彼女は母親の元へ戻り上海で療養生活をします。この間、蘭州大学の学生たちと現状の政治状況を批判する「星火」という雑誌の編集に協力します。ちょうど大躍進運動の期間ですね。彼らはこの運動が農村を破壊するバカ騒ぎにすぎないことを見抜いていたのです。ただ、林昭は投稿はしても、積極的ではなかったような感じですね。それがどういう結果をもたらすのかもわかっていたような感じです。

 1960年、「星火」の第二号が完成し出版を予定していたところ、密告によって関係者43名が逮捕され、その内25名が反革命集団のメンバーとして判決を受けます。林昭も1960年10月に投獄されました。以来、彼女は7年間獄中生活を送り、約50万字に及ぶ文章を書き続けます。その内容は直接的表現で中国共産党政権の独裁批判や毛沢東に対する風刺だったのです。そして、この「血書」という書名を見てわかるように、紙も筆も無いときは、彼女は自分の肉体を傷つけて流れ出る血を使ってシャツやシーツなどに書き続けたのです。

 1962年、結核治療のため入院したとき、彼女は中国共産党に民主主義への改革を望むことは無駄なことだと悟ります。そして中国共産党の暴政に再び徹底的に反抗すること決意するのです。同年9月、「中国自由青年戦闘連盟」の綱領と規程を起草し、海外に向けて「我々は無罪である」、「北京大学校長陸平への手紙」を発表します。12月、林昭再逮捕。1965年5月、「中国自由青年戦闘連盟」事件の主犯として懲役20年の判決。

 そして、1968年4月29日、上海提籃橋監獄に収監された林昭は死刑判決を受け、即日銃殺に処されます。享年36歳。

 個人的な感想ですが、この女性は違う時代、違う場所に生まれていれば、実力のある芸術家や事業家、あるいは政治家として成功していた人かもしれないと思いますね。よく見かけるじゃないですか、自分のような平凡な人間には計り知れない内に秘めたエネルギーと才能に恵まれた人です。彼女もおそらくそういう人です。その内からあふれ出るエネルギーと人間の自由を根こそぎ奪い尽くす共産主義の強大な圧力の間で、彼女は肉体も精神も粉々に破壊されたという、そんな感じがするのです。

 私にはとても手の届く女性ではないけれども、一目会って話でも聞きたかったなぁ、なんて思いますよ。

 あの国の、あの体制の中で、いったい何人の有望な若者たちがこんな風に殺されていったことか・・・。

 

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lin zhao