林昭 Lin Zhao その二


 何か、こう胸の奥に深く沈殿していくような、言葉では言い表せない感情が残りますね。彼女が銃殺されたのは1968年4月29日。私はその頃2歳半の幼児ですが、それでも生きていた時間に重なりがあるわけです。もっとも彼女は12歳ぐらいまでは第二次世界大戦の時期と重なっているので、日本人といえば“侵略者”であり“敵国人”でしかなかったはずですね。でも、どういうわけか彼女の弟は日本の俳句の研究者なんですよ。まぁ、兄弟とはいえ別人ですし、弟の方は姉の問題もあって政治嫌いだったようですし。

 勝手に想像してしまうんですよ。もし彼女が提籃橋監獄の鉄格子の内側から現在の繁栄した上海の街並みが見えたら、いったいどう思うだろうか。もちろん毛沢東を崇拝する習近平共産党独裁体制は今でも続いているのだけれども、少なくとも物質的には彼女が生きていた時代の中国とは違い、非常に豊かになっているわけです。でも、もしかしたら林昭は天性の直感で、現代の中国も自分が望んだ人間の自由が尊重される世界ではないことを見抜いてしまうかもしれませんね。

 彼女に興味を持って以来いろいろ調べているのですが、彼女が書き残した“血書”、つまり自分の血で記した文書も、まだ全てが公開されているわけではないのでわからないことも多いんですね。中国共産党にとっては当然“隠蔽”と“抹殺”の対象ですから、私が生きている間にそれら全てが公開されることはないかもしれません。でも、そんなことでいいんですかね。彼女は全中国人にとっての精神的財産ではないかと、私は思いますよ。

 いろいろ資料を探していたら、余潔さんが「自由亜州電台(ラジオ・フリー・アジア)」に寄稿した文章が掲載されているのを見つけました。余潔さんは、私が尊敬する中国人の一人ですが、何しろ頭脳の出来が私と違うので、彼の書く文章は時に非常に難しいのです。本来、私のようなボンクラが訳してはいけないのですが、林昭に関する文章なので、勉強と思って挑戦してみました。訳が正確とは言えないので、中国語がわかる人は原文を読んだ方がよいでしょう( https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wenyitiandi-cite/yj-01052022131024.html)。

 長いので二つに分けます。今回は前半です。

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禁書解読
余潔:臣民でも暴民でもない“異民”としての林昭---連曦『血書:林昭的信仰、抗争与殉道之旅』
2022年1月14日

中国毛沢東時代の異端思想の頂点である林昭の反共と反毛

 中国思想史と中国キリスト教史の先覚者たちは絶えず抹殺され葬られてきたため穴だらけの歴史となっている。歴史書の中心は歴史家たちが大袈裟に描く栄光に満ちた成功者たちによって占拠されているが、彼らの大半は時節を読むのが得意で己の保身のためにうまく立ち回った凡人か奴隷根性の持ち主でしかない。全く逆に、たった一人で危険を顧みず強大な権力に立ち向かっていった“思想史上の失踪者”が存在している。彼らこそこの大地の脊梁であり、記録され、思い出され、受け継がれ、発揚されるべき対象である。“思想史上の失踪者”の発掘は極めて困難な“知識考古学”だが、このような仕事は苦労ばかりが多くて割に合わないものであり、努力に応じた結果が得られるともかぎらない。

 小さな灯火で長く暗い夜を照らし出すことは難しい。しかし、暗闇の中にいる人々に一筋の希望の光を見せることは可能だ。中国思想史と中国キリスト教史に、林昭のような人物の記載が有るのと無いのとでは、天と地ほどの違いがあるということになるだろう。長年にわたって中国キリスト教史と中国近現代史を研究してきたアメリカ・デューク大学の世界キリスト教研究講座教授連曦氏は、8年もの時間をかけて、蘇州から北京大学、提藍橋監獄から霊岩山公墓に至るまで訪問し、大量の一時資料を収集し、さらに林昭の友人たちを取材し、“思想史上の失踪者”の一人である林昭のために、彼女の思想と精神の伝記を歴史上最も完全な形で一冊の本にまとめ上げた。このような著作が学術界において高い名声をもたらすとは言えないだろう。しかし、林昭の長詩の標題と同様、それは天界から火を盗んだプロメテウスのような仕事であると言えるだろう。林昭の生命と思想の変遷を再現することによって、将来の中国の民主化のために大切な火種をもたらしたのだ。それはとても小さな火種かもしれないが、中国の民主主義への転換の成否と優劣を決定づけるものに違いない。

 私が林昭の名前を最初に知ったのは、北京大学中文系(中国語学部)銭理群先生の授業でのことだった。その後、私は北京大学大学史や中文系史、北京大学図書館の膨大な蔵書を調べてみたが、林昭に関する資料は何一つ見つけることができなかった。銭先生は私の指導教官ではなかったが、私に最も影響を与えた先生だった。しかし、銭先生は西洋キリスト教文明や信仰については詳しくなく、キリスト教と林昭の重要な関係性について意識はしていたけれども、この方面からのより深い研究や解読はできなかったようだ。さらにその後、私と劉暁波氏は“天安門の母”として有名な丁子霖氏と知り合いになり、彼らから林昭についてのより多くの事跡や観点を聞くことができた。反抗者と反抗者の間には心に通じるものがあり、それは時代や生死を越えるものなのだろう。

 林昭の共産党毛沢東への反抗は体系的に論じられたものではない。しかし、それは本質的で徹底的である。彼女は西側の政治学について専門的に学んだことはなかったし、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読んだこともないだろう。それでも彼女は正確に“極権(以下:全体主義と訳す)社会”という概念によって共産主義中国を定義している。林昭の“全体主義”という単語は使用は、1960年代の公的な中国社会では他に例がない。1950年代に中国官製メディアがユーゴスラビア共産主義者連盟綱領の草案を批判するために“全体主義”という単語を引用したことがあるが、反右派闘争以降は二度と使用されることはなかった。中国人が最も早く“全体主義”を知ったのは、1939年に青年会が出版した余日宣の『キリスト教徒と極権主義』を通じてだった。林昭は、中国は全体主義統治の警察国家であり、特務機関が党の全てを支配し、党が国家を統治していると指摘している。この種の全体主義体制は人民の血とルサンチマンによって権力が維持されており、個人への迷信や偶像崇拝の土台に築かれ、人民は愚民化政策によって奴隷根性が植え付けられているという。林昭はさらに具体的実名を上げて、毛沢東を未曾有の暴君でありならず者であり、中国の暴政は暴君毛沢東の馬鹿げた気紛れの結果であると糾弾している。彼女は毛沢東の「七律・人民解放軍占領南京」を書き換えて、最後の四句で毛沢東を歴史上の恥辱として断罪している。“只応社稷公黎庶、那許山河私帝王?汗慚神州赤子血、枉言正道是滄桑(これは・・・翻訳不能!)”

 学者である印紅標氏が『失踪者の足跡:文化大革命期間の青年思潮』を書いたとき、林昭の資料はまだ発見されていなかった。本書には林昭のことや『星火』の地下出版に関わったメンバーの事柄や観点は収録されなかった。実際、林昭の思想の深さや広さは本書に収録されている大部分の人物より優れている。林昭と比較できるのは、顧准、王申酉、張中暁、魯志文など数えるほどしかいない。たとえば、知識青年魯志文はこう指摘している。中共全体主義政権であり“世界の共通認識である民主的権利や人民の思想や言論の自由の一切を禁止している。また、暴力的な統治に対して反対したり、ただ単に賛同しなかっただけの人々を残酷に鎮圧している。酷いときには大っぴらにテロリズム的手段を利用する。・・・人類を敵視する反動的謬論を大々的に拡散している。たとえば人種的優劣論や反動的血統論、人為的に作られた階級闘争や階級隔離などだ。これによって一部の人々を惑わして籠絡し人民鎮圧の目的を達成しているのだ。この他にも大々的に愚民化政策を押し進めており、奴隷化教育を実施している。奴隷主義によって人々に盲目的服従精神を押しつけ、個人に対する迷信や指導者至上主義の神話を宣揚している。”惜しむべきは、中国共産党の過酷で残虐な統治によって、このような孤立した思想的先駆者たちが互いに結びつき、協力してさらに重厚な思想的成果を生み出すことができなかったことだろう。

徹底的な抵抗を支えたキリスト教の信仰

 『血書』の中で連曦氏はホームズのような探偵の目と心で、これまで知られることのなかった多くの真相を明らかにした。林昭の妹の彭令笵は姉のことを回想する文章を書いているが、当時彼女と姉の関係は疎遠であったため、文章の中に若干の事実誤認が見られる。たとえば、連曦氏は林昭は龍華飛行場で銃殺刑に処されたのではなく、提藍橋監獄内で公開銃殺されたことを明らかにした。より重要なことは、“林昭の謎”・・・つまり、林昭が岩石の溝から飛び出した孫悟空のような超人的存在ではなく、彼女の抵抗のエネルギー源はキリスト教の信仰であったこと、そして彼女の妥協のない決意は、誰も望まない殉教の道を彼女自身が自発的に選んだことによるものであることを明らかにしたことである。

 林昭は少女時代にキリスト教系の蘇州景海女子師範学校の教育を受けている。この学校はアメリカのメソジスト監督教会(南方循法会、1939年以降、南北循法会は衛理公会に併合された)が中国で設立した学校である。連曦氏はアメリカ連合衛理公会の資料室で多くの一時資料を調査している。景海女子師範学校の設立と発展は、キリスト教系の学校が近代中国にもたらした文明開化的役割は無視できないものであることを示している。しかし、連曦氏はキリスト教系の学校と西側宣教師の貢献に対する評価にとどまらず、林昭が一時期キリスト教から距離を置き共産主義に傾倒していった心の動きから、一つの大きな疑問について自省的に考えている。すなわち、二つの異なった思想体系の衝突において、いったいなぜキリスト教の信仰は共産主義に打ち負かされてしまったのだろうか。

 林昭はその最も代表的な例だろう。林昭は景海女子師範学校に入学してすぐに宣教師の導きに従って洗礼を受けている。しかし、洗礼は決して彼女のキリスト教への信仰が盤石になったことを意味してはいない。ほどなくして、彼女は危険を顧みず共産党に参加し、すぐさま中国共産党が設立した新聞専科学校で学ぶことを選択している。父親は彼女に、“青年の純粋な情熱を政治に利用することは残酷なことだ”と言って、共産党を信用するなと警告している。しかし、林昭は聞く耳を持たず、積極的に土地改革運動に身を投じ、家族が引き裂かれてもおかまいなしだった。“活不来往、死不弔孝(生きて会うことはないし、死んで弔うこともない)”と彼女は宣言し、父親が“美国之音(ボイス・オブ・アメリカ)”を隠れて聞いていると政府に密告するなど酷いこともしている。

 あの時代の最も優秀な青年たちにとって、共産主義はなぜキリスト教の信仰よりも大きな影響力を持ったのだろうか。先ず第一に教会や教会系の学校が世俗化、功利主義化してしまっていて、福音よりも世渡りの方が優先されてしまっていたことがあげられる。当時の宣教師や教会系学校の教師たちは、もはや清教徒時代の整然とした観念体系を失っていて、マルクス主義の攻撃の前に為す術もなかった。景海女子師範学校を例にあげると、この学校は多くの上流階級や中産階級の女子学生にとって魅力的であったけれども、親の関心事は子供の職業と結婚であって、子供の精神的成長ではなかった。学校は宗教儀式を教えていたが次第に形ばかりのものになっていた。もう一つは、共産主義が約束した過激なユートピア思想が、教会が教える生温い社会改良主義よりも青年たちを一層強く引きつけたことだ。国民党の腐敗や社会の暗黒面、列強に侵略される中国の現状は、中国の知識青年たちから次第に忍耐と理性を奪っていった。彼らは一刻も早く満身創痍の中国を救い出す処方箋を探しだそうとしていた。そこに共産主義が最もよい処方箋を提供したのである。・・・もちろん、何年かの後に人々は、この処方箋は病を治せないばかりか残酷で致命的なものであることを思い知るのだが。

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 共産主義が財産の私有を禁じていることぐらいは常識でしょう。でもそれは甘い考え方です。共産主義が奪うものは財産だけではありません。あなたの身体も精神も全て自分のものではなくなるのです。人間がどう生きるかは民主集中制の頂点に立つ“指導者”が決めるのです。となれば、あなたに自由はありません。ということは、あなたがどう考えるのかも、どう行動するかも、全て“指導者”が決めるのです。林昭は監獄の中でこの強大な敵とたった一人で闘ったのです。