フェイスブック辞めた

 今日、フェイスブックのアドレスを削除した。あと30日間は復活させることが可能なのだそうだけれども、とりあえフェイスブックの世界から私は完全に解放されたということになる。

 「解放」といっていい。

 だいたい毎日毎日四六時中誰かとコミュニケーション可能という状態は人間として健全なものなのだろうか。知り合いとはいえ、誰かが投稿したり、コメントを寄せてきたり、メッセージがあったりする度に、その反応に迫られるというのは、正直に言って私には煩わしい。こんな事言ってると友達を無くすかもしれないけれども、そんな程度で失うような友人ならとっとと消えてもらってかまわないと思う。

 人間と人間の関係は、本来はもっとゆったりと形作られていくものだと思う。初めて出会ったときは、まだ相手のこともよく知らないわけだし、当たり障りのない話をしながら、何だかこの人には好感が持てるな、とか、ちょっといやな感じがするな、などと感じながら、今後もつき合うかどうかを直感的に決めていくものだ。この直感というのは意外に正確なところがあって、無理してつき合っても合わない人は結局合わないものだ。合わなければ、そのまま会わなくもなっていく。

 SNS上では、そんなわけにはいかない。いきなり「友達」なんだ。あとでブロックできるとはいえ、何というかプラスでなければマイナス、白でなければ黒のような反応はどう考えても人間的とは言えない。実際の人間関係の中では、合わないからといって一切つき合わないというものではないし、合わないから即絶交というような乱暴な人間関係の切断の仕方はしないものだ。それが平気でできてしまう人というのは、私には異常な人間のように見える。

 それに人間は言葉だけで会話しているわけではない。声の調子や顔の表情、動作や仕草も重要な気持ちの表現になっているわけで、それがあるから多少乱暴な物言いをしても喧嘩にならずにすんだりする。絵文字のような表現方法があるとはいえ、SNS上で面と向かったする会話の豊富な表現を再現することは事実上不可能だろう。酒でも入れば言葉は大袈裟になるし、場合によれば攻撃的にもなる。それをそのまま真に受けてしまえば人間関係は壊れてしまうに違いない。

 物理的に会わない、コミュニケーションがないという状態を作り出すことが、今ほど難しい時代はない。しかし、四六時中スマホをいじりながら誰かとつながっていないといられないものなのだろうか。というかそうであるべきなのだろうか。この人、どこにいるのか何をやっているのかさっぱりわからないという状況に自分をもっていきたいというのは、ゆるされないことなのだろうか。はっきり言えば携帯やスマホもみんな捨ててしまいたい気持ちだ。

 黒電話のダイヤルを回していた頃が懐かしい。 

管総理にお願いしたのはとにかく経済成長、ですね

 今日は休みなんで下らないことをつらつらと考えてみたりするわけですよ。まぁ、誰も見ていない寂しいブログですし、おそらく何を書いていてもいいはずですから。

 元大蔵官僚で数量経済学者の高橋洋一さんが、日本の場合2.5%だったか、そのくらいの失業率なら完全雇用を達成したと言っていいんですよ、と言っていたと思います。根拠はわかりません。でも、頭のいいひとが言うんですし、そうなんでしょう。

 それで、第二次安倍政権ではほとんどそれを達成しているんですよね。人によっては非正規雇用が増えただけとか、実質賃金が下がっているとか、色々と批判してるわけですが、何にしても仕事があるということは、仕事がないということに比べれば圧倒的にいいことなんです。

 私は、幸か不幸かバブルの終わり頃に就職をして、今日まで自己都合退職もリストラもなかったので、失業という経験はありません。このまま頑張ってしまえば定年まで行ける可能性は十分にあります。ちょっと傾いている業界にいて、今回の武漢肺炎ですから、会社自体がもつのかどうか心配ではありますが。

 長いことサラリーマン社会で暮らしていると、自分で事業をやっている人に比べたらずいぶん楽とは思いますが、それでも自分で仕事を作り出す能力があるかないかが、その職場の雰囲気や自分自身のモチベーションに大きな影響を与えていることに気がつきます。当たり前って言えば、当たり前すぎる話ですが。

 サラリーマンですから、ただそこにいて時間をつぶしていたって給料は出ます。仕事以外のことを考えて、心ここにあらずでも、終業時間になれば安心して帰宅できるわけです。時間外「労働」をすれば残業手当や休日出勤手当さえ出ます。

 それで会社を辞めさせられたら、外部労組なんかに駆け込んでいろいろ屁理屈をこねまわして未払賃金だ慰謝料だ何だと会社に請求することだって可能なんです。私自身、総務関係の部署にいたときに、そんなのを相手にしたことがあります。彼らのその後がうまくいったとは到底思えませんがね。

 世の中にはいとも簡単に大金を稼いでいるように見える人もいます。どこかに上手い方法があって指先をちょこっと動かすだけで数千万だの数億だのの金額を手に入れているように見える人もいます。

 いると思いますよ、確かにね。
 でも、それはあなたじゃない。
 少なくとも自分ではない。

 サラリーマンをやっていたって仕事というものの本質はわかります。それは誰かがそれを正当な意味で必要としているから成り立っているものです。誰も必要としていないのならそれは仕事として成立していません。場合によればそれは犯罪です。

 私も6年間やりましたから営業という仕事がどんなに厳しいものかよく知っています。とくに飛び込み営業は、まぁ、地獄ですな。精神的に弱ければ鬱病になってしまいますよ。私もなりかけましたからね。犯罪的な手法を使わなければ達成できないノルマをかけられたら耐えられないですよ。

 以前、資産運用のためのマンション購入を「押し売り」しにきた営業マンを相手にしたことがあるのですが、最初から社名や連絡先を提示しないし、玄関に延々2時間以上粘り続けるし、最後はヤクザまがいの上司を呼んできて恫喝するし、酷い目に遭ったことがあります。よくあんな営業させるものだと思いましたがね。

 断固として断り通しましたよ。
 何を言われても全部拒絶しました。
 こういう仕事は誰も必要としていない仕事ですね。
  
 今は右肩上がりの経済成長時代じゃないですから、楽に金が入ってくる仕事なんてほとんどありません。そんな社会の中で暴力的に、あるいは詐欺的に他人から金を巻き上げようという連中が湧いてくるのは無理のないことなのかもしれません。

 私ぐらいの年齢なら、ある程度それに抵抗することもできますが、高齢者がこれに抵抗したり、騙されないようにするのはなかなか大変なことです。だから、もう日本は経済成長しないんだ、などとしたり顔で言う人間を見ると虫唾が走りますね。

 何だか話があらぬ方向へ行ってしまいましたが、仕事というものは楽ではありません。そして仕事というものは自分で作り出すものです。これはサラリーマンであろうと自営業者であろうと変わりはありません。どちらにしても正当な意味で必要とされる人間になることです。

 大昔、中国に関係する仕事をしていました。
 今は流行らないですね。

 その頃、中国の南方のある地域の農業技術者と個人的にメールのやりとりをするようになったんですよ。日本の農業技術に強い関心を持っていて日本語を独習し日本の農業技術書を何とか手に入れて読んでいる在野の人でした。

 彼の熱意に押されて私も何十冊も日本の農業技術書を送ってあげたんですよ。そのうち、その中のある有機農業の本に目がとまったらしく、その本の著者を現地に呼びたいと言ってきたんです。

 何しろ国境を越えて中国ですから行ってくれる保証はなかったんですが、その著者に頼んでみたら二つ返事でOK。その後、その技術は現地で多くの農家に取り入れられていきました。多少手間のかかる方法だったのですが、当時の中国は(今でも、かな?)農薬や化学肥料を大量にぶち込むという乱暴な農業を展開してたので、問題解決のために必要だったのでしょう。

 しばらくして、私も現地に行く機会を得て、その技術が取り入れられている地域を見て回りました。ちょっとしたきっかけが大きく成長しているのを見て、多少感激したのですが、特に感動したのが現地の集荷場の責任者の一言でしたね。以前多かった癌や原因不明の病気が減ったって言うんですよ。

 別にこれで会社がボロ儲けしたわけではありませんが、何となくいい仕事ができたなと思えた瞬間でしたね。自分で勝手に進めた仕事でしたが、最終的にそれを認めてくれる上司もいて幸運でした。ある意味、サラリーマンだからこそできた仕事だったのかもしれません。

 私も定年の二文字が目の前に見える年齢になりましたが、うまくいかなかったことが山ほどあるにしても、これが自分だったんだなと思えるような人生になっていますね。他人にどう思われるかなんてどうでもいい、自分はこう生きた、といった感じですか。
 

通過儀礼か、懐かしいなぁ。

 大むかしの記憶なので、何時どこで読んだ何という本だったのかは忘れましたが、どんな社会であっても、伝統的な文化が守られている社会であれば、人間には必ず大人になるための通過儀礼のようなものがあるものだ、と書かれていたような記憶があるのですよ。

 確か、女の子であれば自分の身体自体が嫌でも性的に成熟していき、妊娠出産という劇的な体験を、まぁ、しない女性もいるわけですが、一般的にはするわけです。だから女性が大人になるのは比較的容易だと書いてあったような気がします。

 しかし、男の子はそう簡単ではありません。まさかマスターベーションで大人になることはないですからね。だから子供の意識のまま身体だけ出来上がっていってしまい、気がついたらとっちゃん坊やになってしまっていたりするわけですよ。

 男の子の通過儀礼というものは、だいたい自分の無力感を思い知らされるという経験から始まるのではないか、なんて思いますね。子供の時代、周囲の人間はとりあえず何をやっていても大目に見てくれますし、大した事でなくても、ちょっとしたことでベタ褒めしてくれたりするわけです。

 だから、反抗期になるとある種の万能感をもってしまう子供っていますよね。親や教師に暴力振るっちゃったりなんかしてね。それでも親や教師は必死に子供のケツを拭いてくれますからね。あれは単なる甘えに過ぎないんだけれども、そこで一発ガツンと叩きのめしてやらないと、男の子は大人になれないんですよ。

 前の戦争の前までは徴兵制なんていう仕組みがあって、そのガツンというのが有ったんだと思うんですよ。まぁ、近代以前の社会では15歳にもなれば大人扱いでしたし、丁稚奉公やらなにやらで、とにかく一人前に役にたつ人間になるまで鍛え抜かれたわけです。

 私は、バブル就職組なんで、まぁ、そんなに偉そうなことを言えるご身分では無いんですが、自分で好きこのんで飛び込み営業の世界に入って、何というか己の無力さを徹底的に味わいましたから、それ以降は幼稚な万能感なんて持ちようがなくなってしまいました。とにかくこの世界は実力が無ければ何を言ったってムダです。

 かといって、何の実力もない人間が生きていけないか、と言えば、そうでもないような気もしています。だいたい万人に秀でた才能を持つなんてのは、凡人には叶えられない夢のようなものですからね。では、そんな凡人はどうしたらよいのか。

 謙虚に真面目に生きる。
 それしか無いですね。

 でも、せっかく生きているんですから、死ぬ前にこれだけはできたなぁ、なんて思いたいですよね。そういう意味では、ちゃんとした価値観を持つことは大切ですね。

 ちゃんとした価値観かぁ、俺も難しいこと言ってるなぁ。
 まぁ、今日はもう寝るか。

人間は努力して「人間」になるんだ、っていう話

 ずっと以前に購入しながら結局読むことなく部屋の本棚に置いてある本が、まぁ、結構有ったりしますよね。

 何となく一ページぐらい目を通してやらないともったいないかな、なんて思ったりして、ペラペラとページをめくっていると、おや、と思うような箇所を見つけたりして、とりあえず買っておいてよかったかな、などと思ったりすることも時々あります。

 『不可能な交換』(ジャン・ボードリヤール著 紀伊國屋書店)。

 この本、いつ頃買ったのか、全く覚えていませんが「初版2002年1月24日」となっているので、たぶんその頃買ったのでしょう。ジャン・ボードリヤールという名前はどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、もしかしたら大変な有名な人なんでしょうかね。

 「世界、あるいは現実がヴァーチャルな領域で人工的な等価物を見つけたとき、その世界、あるいは現実は不要になる。」(同書P62)

 別にたいそう難しい話をしているわけではありません。ただ学術書の翻訳文によくある小難しい表現なので平凡な人間には解りにくいだけです。

 要はこれまで人間が頭脳や肉体を懸命に使用して、生きるために、あるいは繁栄していくためにやってきた“仕事”が、最先端のデジタル技術・・・と言うのかITとでも言うのか・・・によって取って代わられてしまったとき、それまでの人間的な“仕事”は意味を失って必要なくなってしまう、ということなのでしょうか。

 私は訪問販売の営業もやりましたし、中国語を使って中国で商談をしたりもしました。最近は経理の仕事をしてきたのですが、そのいずれもが、将来人工知能の機能によって置き換えられていくのだと言われていますね。

 これはつまり、近い将来、頑張って外国語を習得したり、必至になって仕事上求められる技術を身につける必要はなくなってしまうと言うことなのでしょうかね。頭の良いお方々の話によれば、本当にそうなってしまうということなのでしょう。

 最近、実に下らない、でも結構考えさせられる映画を見たんですよ。

 「26世紀青年」(原題:Idiocracy)
 https://www.youtube.com/watch?v=clYwX8Z43zg

 この映画、本当にアホらしい。

 現代の最も平均的な若者が冷凍保存されて、人類全てがバカ化した500年後の未来に蘇生し、「植物を育てるには水が必要だ」という知識だけで大統領になる話。こう書いているだけでも、実にアホらしい。

 この映画では人類がバカ化する説得力ある原因については何も語っていません。ただ単に現代社会ではインテリは“生殖”行為には無関心で、バカは頭の中が“生殖”行為でいっぱいだから、やがて世界はバカばっかりになると言っているだけです。

 う~ん、ホントにそうなのかねぇ?

 それよりも、まぁ、所謂ITというか何というか、昨今の技術革新によって人間が自ら努力しなくとも様々な仕事がそれによってできてしまうという環境の方が、よっぽど人間をバカ化してしまうのではないだろうか。

 近い将来人間は、人工知能だとか何だとか言う技術の進歩によって、何だってできるかのような万能感を得ることができるのかもしれません。けれども、当の本人自体は全くの無能で、やたら万能感があるだけにバカ化してしまうかもしれない・・・なんて思ったりするんですよ、私は。

 例えば、猛スピードで車を運転している運転手がそのスピードを得意がっているような話ですね。

 「早いのはおまえじゃなく、車だろうが!」ということですよ。

 仕事柄、農業の世界に接することが多かったのですが、本物の農家というものは、その場所で生きこなすための知恵と技術を身につけたプロです。全身で周囲の自然と相対して生きているのですから、それが当たり前ですし、それができなければ農家とは言えません。

 まぁ、農家に限らず、本来仕事というモノはそういうものなので、プロ、つまりそれでお金を稼げるようになるには、必要とされる様々な知恵と技術を習得する必要があります。簡単ではないけれども、それが人間としての成長にもつながるわけです。

 人工知能だとか何だとか言う技術が発達しても、そういうものは無くならないという人もいることにはいますが・・・そうなんですかねぇ。

 そうだといいんですが。

 落語の「藪入り」だとか「孝行糖」だとか、そんな話を聞いていると、本来人間という生き物は人間として生まれてきただけでは「人間」ではなくて、やはり世の中の役に立ってこそ初めて「人間」になるのだ、という哲学が昔の日本人にはあったような気がするのですよ。

 そういう「人間」は、これから絶滅してしまうのでしょうかね。
 やっぱりみんなバカ化しちゃうんじゃないですか?
 どうなんでしょう?

方艙醫院真神奇

 さあ再開するぞ、と思って色々考えている内に、いきなり今回の武漢ウイルスのパンデミック。埼玉の片田舎から都心に出勤している人間としては、毎日満員電車に乗るのも何とも気持ち悪く、とてもブログの文章を考える精神的余裕なんか無かったですね。

 それでも放っておく訳にもいかず、何かしら書いてみようかと持ったりもしたんだけれども、よく考えてみれば他人に呼んでもらうようなものなんて書きようがないんですよ。私のような凡人にはね。

 まぁ、愚痴は止めましょうか。

 https://www.youtube.com/watch?v=Qa2XCse6Ewg

 これ何だと思います?

 方艙医院は知っていますよね。武漢で今回のウイルス騒ぎが起きたときに急いで建てられた臨時病院ですが、ここの様子を厚化粧の子供が楽しそうに歌っている動画です。

 何でも中国の中央電視台が全国に向けて放送したものだそうで、中華圏界隈ではけっこう話題になっている動画なんですよ。

 これがこんな風にリメイクあされていくんですよ。

 https://www.youtube.com/watch?v=64a0eL4upio

 https://www.youtube.com/watch?v=uhtTrJ0FEtQ&t=27s

 https://www.youtube.com/watch?v=mLGkkSGrz8s

 台湾の日本語の先生なんかこうですね。

 https://www.youtube.com/watch?v=6D0NE7Vfc5Q

 この先生、他の動画ではけっこう真面目に日本語の授業をやっているんですが、これはイッちゃってますね、実に気持ちが悪い。

 二番目のリメイク版はなかなか歌詞の内容がいいですね。

 中共政権ってほんとに不思議
 ウイルス作って武器にする
 コウモリ、センザンコウハクビシン
 熱が出て、咳も止まらない、ゲホッ、ゲホッ
 パンデミック情報隠しは得意技
 遺体焼却の煙は絶えず
 WHOは媚び売るばかり
 おかげで世界に大流行
 人民の悲しみなんてそっちのけ
 台湾を軍用機でおどかして
 それでも治安維持が一番大事
 東亜病夫はNo1
 それ習!維!尼!

 何かいい感じだな。中国共産党独裁政権って、以外とあっさり消えて無くなるかもね。別に何の確証も無いけれども、本当に今後も政権を維持できるんだろうか。まぁ、無くなっても次が無いからそのままだよ、という考え方もあるけれども。

 でも、全ての中国国民に本気で問い詰めてみたいですね。

 このままでホントにいいんですか?
 

再開に当たって

 人生も残りの方が少なくなってしまったし、このまま消えていくのも何だから、何か残しておきたい。そんな気持ちで今から8年ほど前にブログを始めました。

 5年ほど続けましたが、まぁ、まだ若気の至りのようなところがあって、かなり政治的に尖った文章を載せたりしましたね。ランキングを競うような人気ブログに比べたら微々たるアクセス数でしたが、一日に5000アクセスを突破するようなこともありましたよ。

 でも、ちょっと飽きたんですよ。

 平凡な人間ですから特に毎日かけるような事もないんです。それに、ちょっと気になることも起きたりして、そろそろ引き時かな、と思ったのが3年前。そこできっぱり止めました。

 私がブログを始めた頃、一番影響を受けたブログがあります。

 日々是チナオチ
 https://blog.goo.ne.jp/gokenin168/e/042ff34111e72c96cc9fd9321f7accc7

 たまたま思い出して検索してみたら、まだ残っているじゃないですか、御家人さんの遺影。ちょうど今から9年前ですね。しかも、この日から二ヶ月弱で東日本大震災だったんですね。私にとってもこの時期は人生の大きな変わり目だったんですよ。

 当時、会社内で異動がありまして、それまでの仕事とは全く違った仕事に回されて、慣れない仕事に苦労しながらけっこう夜遅くまで残業していました。カプセルホテル通いだったこともあります。

 働き方改革とやらで有給休暇をとらないと総務から注意される現在から考えてみると、とんでもない労働条件だったですね。まぁ、今となってはいい思い出ですが。

 今は動画の時代なんですかね。ユーチューバーとか言うんですか、これでけっこう儲けている人もいるんですね。何でも小学生の将来なりたい仕事の中に立派に「ユーチューバー」があるとか何とか。

 全く恐ろしい時代になったものです。私のような中年も夕暮れにさしかかっている人間にしてみれば「それって仕事?」みたいに思うんですがね。

 さて、そのブログを再開しようという話です。

 まぁ、そこにある、という以上のブログにしようというつもりは全くないし、おそらく客観的にもそれ以上のものにはなりません。取り上げる話題も、多くの人の注目を集めるような内容にはなりません。私の関心で書くだけですからね。

 最近は1989年の天安門事件関係の本ばかり読んでいるんですよ。ようやく原本でもそう苦労なく読めるようになったので手始めに王丹さんの本を片っ端から読んでします。

 彼は時期を区切って何冊か回想録を出しているんですが、今読んでいる「獄中回想録」が一番面白いですね。中国の政治犯を収容する刑務所ですよ。中でどんな非人道的なことが行われているかと想像してしまうじゃないですか。

 もちろん、政治的意思表示をした人間を逮捕拘束すること自体は、立派な非人道的行為ですが、王丹さんが収容された秦城監獄の中の雰囲気は、まるで学生寮の雰囲気なんですよ。

 監獄ですから基本は「拘束」です。行動の自由はありません。しかし、その中で王丹さんたちは、極力明るく前向きに生活しようと努力するんです。やがて、その雰囲気が監獄の職員や政治指導員にも伝わっていき、彼らとの心の交流さえ生まれていくのです。

 まぁ、それが可能だったのは王丹さんが学生運動のリーダーとして世界的に有名だったからであって、投獄されたその他の無名の学生たちはかなり酷い状況だったようですが。

 王丹さん、なかなか魅力的な人ですよ。

 中国という国は、強大な一党独裁国家であり、日本の領土領海を侵し、日本の世論分断工作を進めている恐ろしい「敵国」ですが、ここの中国人の中には非常に魅力的な人がいます。

 強い意志を持って、自分で情報を集め、自分の良心を信じ、自分の頭で考える中国人です。必ずしも知識人とは限りません。現在の中国で「エリート」となる人は、基本的に中国共産党の支配にとって最も便利な人であって「自分」というものがないんですよ。

 王丹さんには明確に「自分」があります。劉暁波さんは当然ですし、余傑さんなんかもそんなタイプの立派な中国人ですね。私は彼らを尊敬しています。

 一方で現在の中国の覇権主義と対峙し、中国人の悪癖である中華思想に基づく行動をはねのけつつ、自分自身の頭でものを考えることのできる王丹さんのような中国人に現在の中国を変えてもらう努力をすること。

 対中関係は、そんな風に努力していくしかないような気がしますね。

 ただ、私はこれ以上無原則に中国人を日本国内に受け入れることには反対です。中華思想に染まった中国人は基本的に「他者」の思想信条や習慣文化を尊重しません。彼らは彼らのやり方を日本に持ち込み、それを日本社会に受け入れを強要するでしょう。

 まぁ、そのへんの事は追々。
 今日はこの辺で。