何だかいやな時代だ

 よく考えれば、いや、よく考えなくても、ネットで繋がっている以上、繋がっている先の情報を「盗み」たくなるのは、たとえそれが経済的利益に結びついていなくとも、人間の持っている本能的なスケベ根性のようなものであって、それを遮断することは容易なことではないのかもしれない。

 名前や年齢、住所、職業、学歴をはじめ、既婚、未婚、子供の有無や人数、趣味や趣向、そこから推測される性格や考え方、さらには人種や民族、社会の中でそれが置かれている立場、もっと進めば顔認証情報やその他の生態情報まで、ネットに接触する度合いが深ければ深いほど、それらが外側に晒されることになる。

 ネット上の検索サービスは便利だけれども、利用する側がそれを利用しているように見えて、実は検索サービスを提供する側がこちらの個人情報を際限なく「盗み」出す道具になっているわけだ。動画サイトでどんな動画を見ているのかも、こちらが選んでいるように見えていて、実は動画サイトの運営者側がこちら側の興味や嗜好を「盗み」出す道具でしかない。

 ネットに依存すればするほど、こちらの一挙手一投足が誰かに監視され、その情報が「盗み」出され収集されていくことになる。そして、もしかしたらいつの間にか、利用する側と利用される側の立場が逆転してしまって、強大なネット企業やそれと結びつく国家の方が莫大な数の利用者を洗脳し、支配できるようになるのかもしれない・・・と言うより、もう現実にそうなっているのか。

 去年の暮れに行われたアメリカ大統領選挙では、最終的にトランプ大統領の側の情報が旧来のメディアからもネット空間からも排除され、彼らの側の主張や情報提供がまともに行われなくなってしまった。彼らの側の主張や情報提供が、たとえ虚偽であったとしても、そのような主張や情報提供があるということ事態は事実のなのだから、自由民主主義の社会の中でそれが排除されるのは異常なことだ。

 最近では、所謂ワクチン問題だ。実際に問題は起きている。現場で治療に当たっている開業医の方が、限られた手段で細々と伝えているけれども、旧来のメディアでもネット空間でも、そうした意見や情報提供は、ほとんど排除されている。「イベルメクチン」という単語すら口にしてはいけないような状況だ。

 何となく映画「未来世紀ブラジル」の中に生きているような感じがする。あらゆる情報が誰かによって収集され、彼らによって正しいとされた情報のみが世界に流されていく。それに疑問を持つ人間は社会の情報空間から完全に抹殺されていく。それにしても、あの映画は本当に未来を先取りしていたんだ。芸術家は、時に科学者よりも的確に未来を描くことができるらしい。

 個人の力でどこまで抵抗できるのかはわからない。フェイスブックはやめた。ラインはもともとやっていない。その他のSNSも興味はない。ただ、できるだけネットと関わらないように努力はしたいけれども、YOUTUBEは見てしまうし、ネットの検索サービスも使ってしまう。そもそもスマホやパソコンを使えば個人情報はダダ漏れだ。

 何だかいやな時代だ。