人口侵略の光景 その一

 引き続きイリシャット・ハッサン・コクボレさんの『維吾爾雄鷹 伊利夏提』シリーズを読んでいます。現在は第二巻『維吾爾雄鷹 伊利夏提② 従中国出走與在美国重生』の後半部分を読んでいます。第二巻は第一巻より中国語的にはちょっと難しくなったでしょうか。

 第二巻では、イリシャットさんの学生時代の回想、イスラム教信仰への目覚め、東トルキスタンという祖国意識の覚醒、中共独裁政権の民族抑圧政策と家族親族の悲劇的運命、そして亡命。そうした事柄が紹介されています。

 東トルキスタンは日本人にとっては遠い遠い見知らぬ国です。そこで起きている悲劇についても、どこかお伽の国の夢物語のように感じてしまうのも、無理はないのかもしれません。しかしイリシャットさんのこの本を読んでいると、そういう距離感がなくなっていきます。

 東トルキスタンで起きた悲劇の、最大の要因は漢民族による「人口侵略」です。第一巻のP206から「為什麽是烏魯木齊火車站」という文章が始まります。ここに1960年前後の飢餓の時代に大量の中国人がウイグルに押し寄せた光景が描かれています。ウイグル人は優しい人々なので彼らを迎え入れ食べ物や住む場所を用意してあげたりしたようです。

 ところが、その後様子が違ってくるわけです。「軒先を貸して母屋を取られる」という現象が東トルキスタンで始まるのです。その先兵になるのが鉄道であり、新疆兵団です。これは教訓として日本人が知っておくべき歴史的事実ですね。

 日本でもひたひたと「人口侵略」が進んでいる・・・のではないでしょうか。
 今回の選挙では、その辺も考えて投票したいものです。

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なぜウルムチ駅だったのか?

一般の人間は近寄れない政府の建物

 2014年12月8日、中国共産党植民地政府はウルムチ中級法院において秘密裏にイリハム・トフティ教授の八名の学生の裁判を行った。その同じ頃、この中級法院では430(4月30日)ウルムチ駅爆破事件及び522(5月22日)ウルムチ公園北街爆破案に関与したとされる容疑者十七名のウイグル人の裁判も秘密裏に行われていた。判決は八人が死刑、執行猶予付き死刑が五人、無期懲役が四人だった。

 もともと私は早くからこの爆破事件について自分なりの見方を持っており、私の知り得た事実について皆さんにお話ししたいと考えていた。ところが他の要件で忙しく、なかなかそれができなかった。その後、この二件の爆破事件は過去の出来事となってしまい新鮮さも失われてしまった。そこで私は判決が出次第文章を発表しようと考えたけれども、やはり様々な原因で遅くなってしまった。

 今日は、430ウルムチ駅爆破事件と522ウルムチ公園北街爆破事件の重大判決が出てから一週間だけれども、やはりもう新鮮さはないかもしれない。しかし私は考え直してみた。爆破事件の背景やウイグル人の見方、あるいはいくつかの事実について語ることは、もしかしたらウイグル人の考え方についてよく知らない大部分の中文読者にとって、すこしは参考になるのではないかと思い、この文章を書くことにした。再度書くことによって、ウイグルのために生きる者として、私の記念にもなるだろう。

 先ず最初の疑問点。なぜ爆破事件の場所はウルムチ駅とウルムチ公園北街だったのか。多くの人が、なぜ暴虐な殺人鬼である共産党の軍警や兵営ではなかったのか、なぜ見かけは真面そうな共産党の高官たちが集まる党委員会や政府庁舎ではなかったのか、と思うだろう。あるいは暴利を貪る汚職官僚の乗る乗用車ではなかったのか?

 皆さんも明確に知っているとおり、祖国に殉ずるウイグルの勇士たちは言わずもがな、歎願直訴をする漢民族の庶民でさえ、整然とした共産党の党委員会や政府庁舎に近寄ることはできないし、まして高官が乗車する高級乗用車など論外。共産党の番犬・・・軍警やその兵営に接近することに至っては完璧に不可能だ。

 そうでないならば、共産党政権が「うつ病であり世の中に不満を持っている」として簡単に罪名をつけてさっさと処理してしまう漢民族の暴徒は、どうして幼稚園や貧しい人々を満載した路線バスを襲撃対象に選ぶのだろうか?

鉄道は中央政府が管理し中国共産党が資源を略奪

 鉄道、列車、駅の設置は、多くの民族にとっては、現代化、新文明、豊かさ、発展の始まりを意味している。鉄道による輸送は、人々と貨物の交流の増加を加速化させ、それと同時に新しい思想や新しい文明ももたらされる。多くの民族は、新しい文明や新しい思想、民主主義や自由といった普遍的価値をもたらす鉄道、列車、駅に誇りを感じるだろう。

 中国を例とすれば、鉄道、列車、駅は、中国現代化啓蒙運動・・・「洋務運動」の一部となるだろう。民主主義や自由といった新文明は、最後まで鉄道に伴う現代化の象徴となり中国に根付くことはなかったけれども、やはり多くの中国人が自分たちで作った世界最長の鉄道や列車に誇りを感じているだろう。

 しかし、ウイグル人いとって、そしてウイグルのその他の土着民族にとっては、様相が全く違っている。現代化を象徴している鉄道、列車、駅は、ウイグル人にとって、そしてウイグルのその他の土着民族にとっては、侵略と虐殺と略奪、そして被差別化を意味していた。そして、洪水のごとく押し寄せる漢民族の政治的移民によって、ウイグル人は自分たちの土地にいながら日を追って貧しくなっていった。

 現代化を象徴する鉄道、列車、駅は、ウイグル人ウイグルのその他の土着民族に何らの新文明ももたらさなかった。民主主義も自由も、現代化に伴う豊かさも発展もなかった。有ったのは、思想的には時代逆行や愚昧、保守、政治的には人々を窒息させるような独裁統治下の虐殺と圧政、経済的には徹底的な略奪と搾取、生活的には大規模で広範囲な極貧化でしかなかった。

 このため東トルキスタンでは、ほぼ全てのウイグル人が鉄道、列車、駅に何の誇りも感じていない。鉄道関係の仕事をしているウイグル人でさえ誰も何の誇りも感じてはいないのだ。
 「東トルキスタンの鉄道システム」は、中国共産党政権「鉄道部」所属の派遣組織であり中国中央直属の組織として、ウイグル自治区の管轄範囲外にあり、その運行についてウイグル自治区には関与する権利がない。「東トルキスタンの鉄道システム」は、新疆兵団や中国石化など中共中央直属の組織同様、完全に独立した「国中の国」となっている。彼らは中国共産党が勝手気ままに東トルキスタンの資源を略奪するのをサポートしている。彼らは中国共産党政権の東トルキスタンの各民族に対する植民地政策の実行をサポートしているのだ。
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 この話、まだ続きます。

六四天安門事件記念館建設計画

 今日は2022年6月5日。昨日は1989年6月4日に中国北京で起きた1989年6月4日天安門事件の33周年記念日でした。もう33年経ったんですね。俺も歳をとったもんだな。当時は確か23歳の「若者」で、北京の東の郊外にポツンと建っていた語学系の学校に留学中でしたね。まぁ、片田舎も片田舎、北京到着初日に北京空港から学校までの間、留学生を乗せたバスとすれ違ったのは荷車を引いた“馬車”だけという場所でしたからね。

 アットホームな留学生宿舎でしたよ。各国の留学生を合わせても、たぶん200人もいなかったと思いますね。当時は日本人が一番多くて40人~50人ぐらいでしたか。いつも集団行動をしていたロシア人(当時はソ連人)以外は、全員すぐに顔を覚えてしまえるほどでした。今思えば長閑な時代で、学校の北と南の大通りの向こう側はほぼ全て一面の畑。北京市街へはエンコしがちなバスで20分~30分ぐらいかかりましたね。

 機会があって2000年代にその学校に訪問したのですが、すっかり市街地になっていて、たしか南門の前には高速道路が開通していましたね。まるで見知らぬ場所になっていて、浦島太郎状態。それでも校内に入ると懐かしい留学生宿舎(女子学生宿舎になっていました)や、何となく見覚えのある校舎がまだあってホッとしましたね。何だかんだ言って、当時の日本とはまるで別世界でしたから、思い出すとやはり胸が熱くなります。

 バブル時代の大学生ですから、ほぼ政治的感覚ゼロの坊やですよ、当時の私は。そもそも第一外国語に中国語を選んだのだって「漢字なんだから簡単だろう」という極めて安易な動機です。まぁ、本多勝一小田実は読んでいましたし、そういう左系の知識人の文章に感化されていた部分もありますから、完全にノンポリというわけではありませんでしたが、あの当時の二十歳そこそこの知識なんてそんな程度のものです。

 1989年の4月頃でしたか。そんなボンクラな日本の坊やが道ばたで売っていたアイスをかじりながら北京の街を散歩していたんですよ。そうしたら、後ろの方から学生の集団が何か叫びながら集団で歩いて来たんですよ。何だべな、と思いながら眺めていたら、その学生集団の一人が私に向かって何か叫んでいるですよ。どうやら「こっちへ来い!」と言っているようなので、とりあえず彼のそばまで行ってみたんです。

 「おまえ、何ぼうっと歩いてるん?」
 「いや、まぁ、ちょっと買い物で・・・」
 「おまえ、どこの学生だ?」
 「○○学院・・・、でも日本の留学生だ」
 「日本人でも今は中国の学生だよな?」
 「はぁ?」
 「こっち来て参加しろ」

 たぶん、そんな会話だったと思いますが、私も「そんな無茶苦茶な!」とは思いましたが、おもしろそうだったんで、そのまま彼らについて行ったんですよ。それで、いろいろ話をしましたよ。中国語のレベルが追いつかなかったので半分以上は筆談でしたか。とにかく「民主主義万々歳」の彼らの話は、日本についてもベタ褒めで、私にしてみれば「おいおい、そりゃちょっと褒めすぎだぁ・・・」と思ったものでした。

 学生というものはまだ社会経験がありません。一般的にはね。だからどうしても頭の中の空想論になりがちです。でも社会人は違います。毎日毎日現実と向き合って生きていますから話は具体的だし、そこから導き出される論理はかなり的確なものになります。いずれにしても私の中国語のレベルに問題があったので完全に把握できたわけではありませんが、当時いろいろと見聞きした事をまとめてみると、彼らの言いたかったことは至って単純なことだったのではないかと思っています。

 共産主義社会ですよ。自由民主主義の社会に生きている人間には実感を持って想像できないことなのですが、彼らに私有財産はないんです。そのことをイデオロギー的に肯定しなければならないので、実は思想の自由もないし、場合によっては感情すら自分の自由にはできないのです。つまり、どう思うのか、どう感じるのかも共産党が決めるんですよ。そこから外れることは「反革命」であり、打倒の対象です。

 自分の考えや意思にかかわらず、1949年以降中国人はそういう世界に放り込まれたわけです。それが理想であるということで、中国人は自分の私的財産を全て取り上げられ、思想も感情も共産党の判断に委ねることになったのです。妥協の余地無くです。やがていくつもの政治運動やら闘争やらを経て1970年代後半、毛沢東がようやく死んでくれたので、鄧小平が改革開放を始めたわけですよ。

 でも、そうしたら国民から取り上げた財産を共産党の腐敗した幹部連中が横流ししてもうけ始めちゃったわけです。そりゃ、何もかも取り上げられて塗炭の苦しみを味あわされた国民は怒るでしょう。「おまえらは強盗か!」とね。だから89年の天安門事件で最も叫ばれたスローガンが「打倒官倒(官僚ブローカーをやっつけろ)」だったのです。論理的には、この官僚ブローカー現象を是正するには民主的な法体系や制度が必要だとは思えますが、先ずはこの「おまえらは強盗か!」という民衆の共産党への怒りこそが天安門事件の根底にあるエネルギーなんですよ。

 学生たちは共産党政権を倒そうなんて、少しも考えていなかったですね。社会経験の無いただの学生である彼らが、どうやって巨大な中国の政治を動かすことができるんですか。そんなことは彼らの方が百も承知だったと思いますよ。

 私の見たところの感じで言えば、5月を半ばを過ぎると天安門広場に集まっている学生たちの問題は、むしろどうやって帰るかだったと思いますね。何しろ地方から北京に向けて大量の学生が集まってきましたが、金もないので泊まる場所もないし、帰る金もないなんて感じでしたからね。共産党政府が穏便にすませようと決意すれば、警官と清掃車だけで十分に広場から学生を排除してきれいにできたと思いますよ。ちょっと日数はかかったかもしれませんがね。

 だが、殺したんです。大量に。
 一時的にはそれでよかったかもしれませんが、殺られた側は記憶しますよ。

 学生運動の指導者だった王丹さんが、香港で潰された六四天安門事件記念館をアメリカのニューヨークに新たに建設しようと計画を進めています。彼らは「記憶」を実行に移そうとしているわけです。中国共産党のジェノサイドを永久に許さない、という決意ですね。

 私の翻訳では頼りのないので中国語がわかる人は原文を読んでください。

 评论 | 王丹:写于“六四”三十三周年的公开信
 https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wangdan/wd-05312022100652.html
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 “64”三十三周年の公開書簡

 八九民運に参加した方々、六四鎮圧の生存者の方々、当時中国国内や海外から学生運動を支援してくださった支持者の方々、そのために帰国できずアメリカに留まった留学生の方々、“八九六四”を忘れることなく中国の民主化を期待している友人たちへ。

 一九八九年、中国において空前の平和的民主化運動が発生しました。不幸なことにこの激烈な民主化運動は、鄧小平の指導する中国共産党の強硬派によって暴力的に鎮圧され、今年三十三年目を迎えました。三十三年が過ぎましたが、私たちは人類史上まれに見る世界的規模での逆流と強大化する独裁制中国による普遍的価値観に対する重大な攻撃を目撃しています。三十三年を経た今日、私たちは六四天安門事件は中国を変えただけでなく、世界をも変えたと主張しなければなりません。

 ここに、私は皆さんとともに歴史的記憶を守り続ける努力をより一層強く呼びかけたいと思います。人間の血は水のように無駄に流されてはなりません。歴史の傷みは虚偽の記述や冷血な権力によって隠蔽されてはなりません。あの時の学生たち、熱い心を持った国民たち、彼らの情熱と貢献を歴史は決して忘れないでしょう。永久に記憶され忘れ去られてはなりません。良心を持ったすべての中国人はその程度の道義心を持っているはずです。

 数ヶ月前、私は友人たちとともに世界に向けて提案をしました。アメリカのニューヨークに六四天安門事件記念館を建設することです。ネット空間上ではない実体のある記念館ならば、“六四天安門事件”に関する歴史的文物を収集保管することができるだけでなく、それらの展示品を通して歴史的記憶を鮮明に現実の世界に再現することができると私は考えます。このような記念館を建設することは、私たちのような人間にとって、八九世代の特別な歴史的責任であり、自分たちが経験した歴史に対する、そしてその中で死んでいった学生や民衆に対する意思表明にもなると私は考えます。

 あの運動に参加して下さった方々へ、そして八九世代の友人たちへ。あなた方が私とともに素晴らしい中国を勝ち取るために闘って下さったことに感謝しています。壮年となったとはいえ、皆さんが当時の理想を持ち続けていることを願ってやみません。“六四天安門事件記念館”の建設によって、私たちが持ち続けてきた理想を具体化しようではありませんか。

 当時の支援者の方々、特に当時海外にいた留学生の方々へ。あなた方があの時私たちのために奔走し、アメリカや国際社会において声援の声を上げて下さったことに感謝しています。“六四天安門事件記念館”においても、あの頃と同様にあなた方の支援が得られることを願っています。

 中国の民主化を支持するすべての友人たちへ。歴史を振り返ってみれば、中国を間違った道へ引き入れ、その道を歩ませ、中国を自由と民主主義の道からどんどん遠ざけてきたのは、八九民主化運動ではなく、“六四”鎮圧の方であったことがわかります。残虐で道理の欠片もないこのような政権の存在自体が、人類の良心と正義に対する冒涜であることを、私たちは直視しなければなりません。強大化する中国共産党政権は世界の平和と自由に対する脅威なのです。また、座して独裁政権が変わってくれることを待つということは、リスクを回避して闘争を先延ばししているに過ぎません。時間の経過とともに闘争はより困難なものになり、リスクも大きくなるのです。

 したがって、ここで私たちは皆さんに訴えます。今改めて八九民主化運動の精神を高揚し、積極的に中国共産党独裁政権に対抗して下さい。中国共産党独裁政権自由民主主義社会に対する攻撃について警戒し、中国の民主化の発展を支持して下さい。この記念館の建設を援助すること自体が、この抵抗運動の一環になるのです。

 遅くとも“六四天安門事件”三十五周年の頃には、私たちは一堂に会してこの記念館の盛大な開幕式を開催できるものと期待しています。“六四記念館chou備網”(jinian64.org)を閲覧して下さい。建設準備の進展に関心を持って下さい。一日も早く記念館の建設ができるように皆さんのご寄付をよろしくお願いします。

 最後に、当時の民主化運動の参加者であり目撃者として、私は何人かの八九同級生を代表してここに宣誓します。私たちは如何なる困難に直面したとしても、一党独裁反対を堅持し続け、憲政民主の理想を貫きます。私たちは忘れません。諦めません。あの時殺されていった彼らの精神が、私たちの前進を支える力となっているのです。

 本年六月四日、皆さんが皆さんなりの方法で記念館建設のために僅かでもお力添えしていただけることを、私も心から願っています。

 謝謝大家!

 王丹
 2022.5.31
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  打倒中国共産党

民族抑圧下のウイグル農民 その二

 最近、上海電力の問題が急浮上してきていて、その実態から日本の政界、財界、官界に相当深く中国のサイレントインベージョンが進んでいることが明らかになってきていますね。日本人は金や女(女性に対しては“男”でしょうか)を使った他国の工作に弱いとは思っていませんが、戦後教育のなれの果てと言ったらよいのかどうか、いずれにしても人が良すぎる感じがします。基本的に人を疑わないんですよ。

 日本社会の安心感は、日本人どうしの暗黙の了解を土台にした相互信頼によって成り立っていると言っても言い過ぎではないと思います。最近海外から日本に来て日本についていろいろと発言している外国人の動画が、YOUTUBEなどに数多くアップされていますが、彼らが肯定的に評価してくれている日本社会の優れた点の大半はこの辺に集中していますよね。ところが、中国共産党の対日工作は日本人のこの“人の良さ”を突いてくるのです。

 これは厄介な問題ですよ。日本人は自分が正しいと思っていることをやればやるほど、中国の対日工作の術中にはまっていくことになるのですから。残念ながら中国人を相手にする場合は、この日本人の“人の良さ”を捨てる必要があります。徹頭徹尾相手を疑ってかかって、ようやく彼らとは対等にやりとりができると言うことです。

 イリシャットさんの本『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦』を読むと、ウイグル人も日本人と同様に“人の良さ”を持っている優しい人たちのようです。本来、それは異なった民族が友好的に接するために必要な能力なのですが、漢民族にはそれは通用しなかった、ということですね。あくまで全漢民族とは言いませんが、漢民族は徹底して利己的な性格をもっている人々ではないかと、ウイグル人にはそう言う資格がありますね。

 さて「民族抑圧下のウイグル農民 その二」です。
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民族抑圧下のウイグル農民 その二

親戚や友人を訪問するにも「良民」通行許可証が必要

 東トルキスタンウイグル農民の移動の自由は、ほぼすべて剥奪されている。特に南部農民の移動の自由は極めて厳格に制限されている。

 ウイグル農民が親戚や友人を訪問する場合、必ず「良民」通行許可証を発行してもらわなければならない。通行許可証には十戸長及び村長、村共産党支部書記、村駐在警察の許可と署名がなければならない。親戚の訪問については、当日早いうちに十戸長に報告しなければならない。十戸長はその家の調査を行い、話を聞き、訪問する人間が本当に親類であること、そして「良民」であることを確認する。さらに交流時間がどの程度になるのかもはっきりさせなければならない。調査では訪問者の身分証の確認や質問も行い、もし訪問者が隣の県の農民であった場合は所持している「良民」通行許可証の確認も行う。訪問した親戚は予定時間通りに帰らなければならない。もし予定時間を過ぎてしまった場合も、やはり十戸長、村長、村共産党支部書記、村駐在警察の許可を得なければならない。とにかく最初から最後まで十戸長とその助手たちの監督下に置かれているのだ。

 村と村の間の往来は比較的容易である。身分証を提示すれば通行可能となっている。村と村の間には検問所が設置してあり、一般的に検問所には武器を持った協警が三人いる。協警たちは現地政府が雇用した村や郷のヤクザ者であり、その村の農民に対しても非常に乱暴で無礼である。まして知らない人間に対しては推して知るべしだ。ちょっとでも間違いを犯したり身分証を忘れたりすると、いかなる農民であっても極めて大きな困難に直面することになる。

 もし遠出をするとか、地域を跨いで移動するなら、先ず十戸長、村長、村共産党支部書記、村駐在警察に「良民」通行許可証を発行してもらう必要がある。その後、郷政府に「正式通行許可証」を発行してもらい、郷の派出所で「無犯罪証明」などの書類を発行してもらう必要がある。

 南部各県のあらゆる県境には検問所があり、ほとんどの検問所に銃を持った公安や武装警察がいて検査を行っている。しかも彼らはウイグル人しか検査しないのだ。もし身分証や良民証、通行許可証などを所持していなかったら大変なことになるだろう。その人は家族が来るまで拘置所などに閉じ込められ、罰金を支払わなければ迎えに来た人に引き渡されることはないのだ。

 東トルキスタンの南部の土地はあまり豊かではないので、ウイグル農民一戸あたりの耕地面積は平均で130アールあまりしかない。しかし例外がないわけではない。私は、この疏勒県のウイグル青年に、自分の村で一番大きな土地を持っているのは誰か、と聞いてみた。青年は、自分の村には五、六戸の漢民族の農民がいて、だいたい2002年前後に内地から移動してきたのだが、最も大きな土地を持っているのは彼らだ、と答えた。

漢民族のために綿花を摘むウイグル人学生

 それで彼らはどのくらいの土地を持っているのと聞いてみると、彼は「一戸あたり2600アールから3250アールだ!」と答えた。今度は「ウイグル人でそのくらいの土地を持っている人はいないのか?」と聞いてみると、彼はきっぱりと「いない。ウイグルの村長でもだいたい1300アールから1950アール程度が一番多い方だ!」と答えた。私はさらに、その五、六戸の漢民族は何を栽培しているんだ、ときいてみると、彼は「綿花」だと答えた。この答えから別な話題へと移っていった。

 この若者は私に、綿花の収穫の季節になると村では強制的に中学生や高校生が授業を中止して駆り出され、漢民族の綿花畑に行って綿花を摘んでいるが、同じ村のウイグル農民は自分で労働力の問題を解決しなければならないと話した。村や郷の政府は「民族の団結を強めるために漢民族の農民兄弟を助けよう!」などと、綺麗事を言っているそうだ。

 綿花の収穫時期には、収穫が一日でも遅れると綿花の等級が下がるのでよい値段で売ることができない。この事は「自治区」の農村の綿花農民であれば誰でも知っていることだ。これも一種の形を変えたウイグル農民に対する搾取的制度と言えるだろう。

 余剰労働力の移転という問題についても、私はこの若者に聞いてみた。彼は、県や郷の規定では「中学校を卒業し高校や専門学校に入学していないウイグル人女性はすべて政府の手配に従って中国国内のその他の省に働きに出なければならない。家長がこれを拒否した場合、重い罰金刑に処すか、監禁して学習班に参加させなければならず、その家が耕作している土地も政府が強制的に没収する。」となっているという。

 「それは女性だけなのか?」ともう一度確認してみた。彼は再びきっぱりと「そうだ。女性だけ、それも未婚の女性だ!」と答えた。ある家長は娘が強制的に連れて行かれるのを避けるために、中学校卒業前に結婚話を整えておき、卒業したらすぐに結婚させることにした。その通りに娘が結婚すると、村や郷の幹部たちは二度とその娘を他の省へ働きに出すことを強要しなかったという。この若者はそれをとても奇妙なことに感じたようだ。

 もとより農民をすることは大変なことだが、ウイグル農民はさらに大変だ。特に東トルキスタンの南部で農民をするということは、まるで地獄の中にいるようなものだ。

(本文は2014年8月19日に博訊新聞ネットに発表したもの)
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 さて、日本に侵入してきている中国共産党のサイレントインベージョンをいかに駆逐するのか、日本人も真剣に考え、行動しなければなりませんね。

民族抑圧下のウイグル農民 その一

 引き続き、『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦』です。イリシャットさんが発表してきた比較的わかりやすい中国語の短文がたくさん掲載されている本なので中国語の教科書としても実用的な本です。もちろん一文一文を読みながら現在の中国が抱えている深刻な問題を理解していくこともできます。

 ロシアによるウクライナ侵略が世界中の関心の中心になってしまったので、同じ巨大独裁国家である中華人民共和国の問題がかすんでしまいましたが、ウイグルチベット南モンゴルを中心に、21世紀の人類にとっての難題が厳然と存在しています。おそらく問題の質は酷くなることはあっても解決に向かいことは当面ないような感じです。

 帝国主義時代の残渣が、これらの独裁国家に残っているとも言えるし、これらの国々は世界をその時代へ引き戻そうとしていると言うこともできるかもしれませんね。その時代からほぼ抜け出して新しい時代へ進もうとしている自由民主主義諸国の国民にしてみると、これは恐怖であり残念なことです。 

 さて、今日は『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦』のP182~P185に掲載されている短文“その一”です。ウイグルでは“強制収容所”が問題になっていますが、すでに2014年頃から全ウイグル人の監視体制ができあがっていたということですね。
 私は思うんですがね。いったい何時まで日本はこの様な非人道的国家と“友好関係”を続けるのでしょうか。こんなことを続けていたら、そう遠くない日に日本人もウイグル人と同じ境遇に追い込まれることになりますよ。

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民族抑圧下のウイグル農民 その一

 全家族のすべての動きを監視する十戸長

 先週のことだが、思いがけず東トルキスタンからアメリカにやってきて間もない一人のウイグル青年に出会った。彼はカシュガル付近の疏勒県の農村の出で、両親兄妹もみな農民だ。
 話の中で、私は特に東トルキスタンウイグル農村の現状について質問した。彼は自分の知っていることをすべて詳細に答えてくれた。今日は、そこから私が知ったことについて書こうと思う。その目的は一つ。皆さんに東トルキスタンウイグルの農民が現在、毎日毎日この瞬間にも直面している史上例を見ないような民族抑圧と民族別紙について知ってもらうことだ。

 この若者が言うには、現在東トルキスタン南部のウイグル農村では、ウイグル人家庭十戸で一つの保安グループを組織し、中国共産党植民地政府はこの十戸のウイグル人家庭から信頼できる一人のウイグル人を十戸長として選任ししているという。十戸長は所管の十戸のウイグル人家庭の全動態の監視・監督に責任を負い、その内容は来客、婚礼、慶事、葬儀、招待、親戚同士の集まりなどにまで及んでいる。

 如何なるウイグル人も客を招くときや親戚同士で集まるとき、婚礼や葬儀の際には、先ず十戸長にすべて報告しなければならない。十戸長の審査を経て後、十戸長署名の報告書を持って村長と村共産党支部書記、村駐在警察の決裁を受けなければならない。

 十戸長の審査を経ず、村長や村共産党支部書記、村駐在警察の決裁を受けない場合は、如何なるウイグル人家庭も自宅では何の活動もしてはならないのだ。客を招くことや婚礼や葬儀もできないし、集まって礼拝することもできない。もしやれば、それは非合法の集会であり非合法の宗教活動とされる。

 婚姻や葬儀、親戚同士の集まり、客の招待について、ウイグル農民は事前にその人数や氏名住所を報告することが要求されている。それらを行うには、十戸長と村や郷での審査を経なければならない。しかも、決裁を得た後は、その家族が勝手に参加人数を変更したり増やしたりすることはできない。通常、十戸長は現場で監督し、村や郷の警察は自由に現場に出入りして人数や身分証の確認をすることもできる。

人々は家に鍵をかけることは許されず、深夜に調査を受ける

 仮にウイグル農民が十戸長の批准を受けなかった場合、それを飛び越えて村長や村共産党書記、村駐在警察に何らかの手続きもしてもらうこと不可能となっている。事実上、十戸長の審査報告書がなければ、村長も村共産党支部書記も村駐在警察も何の手続きもできないのだ。

 ウイグル農民が郷政府に行って手続きをしようとしても同様である。先ずは十戸長の審査報告書に署名をもらい、改めて村長や村共産党支部書記、村駐在警察の決裁を受け、これらの責任者の署名のある報告書を手にして初めて郷政府を訪問し郷幹部に手続きをしてもらえるのだ。

 郷政府の門前には武器を持った協警(警察の補助人員)がおり、政府の建物の中には武装警察が駐在している。もしもウイグル人が強行突破しようとしたら、凶悪犯罪とされ、その結果は想像に堪えないものになるだろう。軽ければ捕まって監獄に放り込まれ、重ければ武装警察によって射殺されることになる。

 如何なるウイグル農民家庭も、夜眠るときに家の戸に鍵をかけることは許されていない。庭の門も家の戸もすべてである。家の門も戸も必ず開けておくのは、政府の役人がいつでも自由に出入りし調べることができるようにするためだ。もし鍵をかけたら、それはつまり問題が存在する証拠であり、何かを隠していることを意味する。調査員はすぐに軍警(軍及び警察)を呼び、門を破壊して侵入させることができる。その結果については、すべてそのウイグル人が負わなければならない。

 夜間の訪問捜査はすべて突然行われ、時間は決められていない。捜査には一般的に十戸長に村長、あるいは村共産党支部書記か村駐在警察、そして二三人の協警が加わる。一旦捜査が始まったら、家族は全員起きて一つの部屋に集合し質問に答えなければならない。大人も子供も誰一人例外はない。捜査員は自由にタンスや箱を開けて捜査を行うことができる。ウイグル人家庭は一般的に、二三日に一回訪問捜査を受けなければならないが、その時間はほとんどが深夜過ぎである。

 最も悲劇的なのは、中国共産党植民地政府のブラックリストに載っているウイグル農民の家庭だ。どの村にも重点捜査対象となるブラックリストが存在する。ブラックリストの家庭のほとんどは敬虔なウイグルイスラム教徒の家庭である。ブラックリストに載るような敬虔なイスラム教徒の要件とは、時間通り一日五回の礼拝を行い、コーランを読むことができ、イスラム教の基本概念を説明することができるウイグル農民のことでしかない。

出版を許可されたウイグル書籍も没収

 重点的に監視されている家庭は、毎日軍警や村駐在警察による不定期の抜き打ち式捜査を受けている。昼夜に係わらず、軍警や村駐在警察は誰からの許可も得る必要なくブラックリストに載った家庭を捜査できるのだ。ブラックリストに載った家庭を捜査する時間帯は、ほとんどの場合明け方で、完全な抜き打ち方式で行われている。

 非常に興味深いのは、この若者が言うには、ウイグル人家庭を捜査する村や郷の役人や軍警はウイグル語の書籍について見つけ次第没収していることだ。没収書籍はイスラム教に関する宗教的な書籍だけでなく、文学や歴史、科学といった内容のものにも及び、合法的であるか非合法であるかも関係ない。

 この若者はさらにこう続けた。現在ウイグル人家庭において捜索されるウイグル語の書籍は、イスラム教に関する宗教書籍はごく僅かで、大多数がウイグル語の文学や歴史の本であり、そのうちの多くが中国語から翻訳された文学作品などの正規の本としてウイグル農民たちが新華書店で買ってきたものなのだ。つまり、これらの書籍は中国共産党植民政府が許可して出版したものなのだ。

 しかし、村や郷の役人、軍警の捜査員はウイグル農民の説明など聞く耳を持たず、ウイグル語の書籍は見つけ次第強制的に没収している。彼らに道理を説こうとすれば、厄介なことに巻き込まれることになるし、彼らに連行されたら、おそらくさらに大きなトラブルになるだろう。だからウイグル農民たちは黙って彼らに勝手に捜査させるしかないのだ。

 このような非人道的待遇、明確な民族抑圧、民族蔑視に対して、ウイグル農民が文句を言ったり反抗したりすれば、本人とその家族は様々な困難に直面することになる。つまり、投獄であり銃殺であり原因不明の失踪である。したがって大多数のウイグル農民は怒りを感じても我慢して沈黙するしかない。

(本文は2014年8月16日に博訊新聞ネットに発表したもの)
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 “その二”は近日中に掲載します。

2011年頃のウイグルのある小学校で光景

 イリシャット・ハッサン・コクボレさんの『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦』を読んでいます。もうあと少しで読み終えますかね。

 

 

 イリシャットさんは、1962年東トルキスタン・伊寧県生まれのウイグル人です。ウイグル問題に詳しい人の間では非常に有名な人ではないかと思います。1988年大連理工大学化工学部卒業ということなので、もともとは理系の知識人なんですね。東トルキスタンの石河子技術学校教師培訓学院でウイグル語と化学工業について教えた後、2003年にマレーシアに亡命。2006年に国連難民署の手配で渡米。2013年にアメリカ国籍取得。その後アメリカ・ウイグル協会主席を2019年まで勤め、現在は世界ウイグル会議の中国事務部主任をしています。

 以前、YOUTUBEで彼の動画を見たことがあるんですよ。非常にわかりやすい中国語で、現在世界的に注目されているウイグル人強制収容所問題の発端について解説していました。この強制収容所の話、アメリカ政府も最初は信じていなかったんですね。中国から漏れ伝わってくる情報をイリシャットさんたちがアメリカ政府に話したところ、最初は「そういう大げさな話をしていると信用をなくしますよ」とたしなめられた、というエピソードを語っていました。この経緯から、この問題がアメリカ側のねつ造やプロパガンダではなかったことがわかります。

 『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦』に話を戻しますね。

 この本も非常にわかりやすい中国語で書かれています。イリシャットさんはこれまでたくさんの論文やエッセイを書かれてきたのだと思いますが、この本はその内の代表的な文章をセレクトして掲載しているようです。いずれも短く端的に事の本質を表現したものなので、読む人の心に素直に響いてくる感じがします。現在ウイグルで起きていることは、小難しい論文で長々と表現しなければならないような複雑な問題ではなく、実際には単純きわまりない現象にすぎません。

 漢民族は自分たちと違ったものを受け入れない。
 受け入れないだけでなく、抹殺しようとする。
 しかも、その理由を相手のせいにする。

 この三行で十分です。もちろん、この範疇に入らない漢民族の人間もいる、ということは前提ですが、大きな集団としての漢民族にこの傾向があることは間違いないと私も思います。だから、集団としての漢民族は、他民族にとって非常に危険な存在なのです。これ、台湾人は十分に理解していますよね。

 ウイグル・・・東トルキスタンで起きていること、あるいはチベット南モンゴルで起きていることは、決して日本にとって「他人事」ではありません。現在日本国内には約100万人の中国人が存在していると言われています。帰化したもの、永住権のあるもの、短期的な滞在、いずれにしてもその大半は漢民族です。良心的な人もいる、ということは前提ですが、集団としては要注意です。

 ウイグルチベット南モンゴルで異民族抹殺を実行しながら、日本では従順におとなしく日本の国柄や法律、制度、文化を尊重してくれるなどと考えるのは、脳天気すぎる考え方だとは思いませんか。

 『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦』の29ページから33ページにかけて、2011年頃のウイグルのある小学校での出来事が紹介されていました。強制収容所が林立している現在では、このレベルの出来事すら牧歌的な民族差別のエピソードになっているのかもしれません。まぁ、軽く訳してみたので読んでみてください。

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ウイグル人であることは間違いなのだろうか?
(ある匿名ウイグル人が書いた短文の翻訳)

ウイグル語を話さないように言い聞かせる教師

 眉毛が濃くて目が大きく、鼻筋が高く、背も高いウイグル人教師アディリが教科書を持って教室に入ってきた。教室の5歳から6歳の52人のウイグル人の子供たちは揃って起立をして覚束ない中国語で「老師好!(先生、こんにちは!)」と言いった。アディリ先生は注意深く生徒たちを一人一人見つめ、彼も中国語で「同学們好!(みなさん、こんにちは!)」と答えた。さらに中国語で続けて「同学們、請座。(では、座ってください。)」と言った。

 アディリ先生は引き続き中国語で子供たちに「今日は『自治区』の偉い人が私たちの学校へ視察にきます。学校は『自治区』の偉い人に私たちのクラスを見てもらうことにしました。」と話した。「もしも偉い人に話しかけられたら・・・」アディリ先生は強調して「みんな、覚えておいてくださいね。必ず中国語で答えること。笑顔で答えること。しゃべりすぎたらいけませんよ。」と言った。

 アディリ先生はさらに何かを思い出したように、厳しい口調で「みんな、絶対に忘れないように。絶対に、絶対にウイグル語を話してはいけません!」と付け加えた。

 アディリ先生が授業をしている最中、突然教室のドアが開き『自治区』の指導者たちのグループが、学校の管理職教員たちに案内されて入ってきた。その後ろには、録音機やカメラなどを持った記者たちが大勢ついてきていた。フラッシュが頻繁に光り、教室内の雰囲気は少し緊張した。突然現れた招かれざる客たちの出現に子供たちも非常に緊張した様子だった。

 子供たちの目もアディリ先生や学校の管理職教員たち目も、厳しい表情で前を通り過ぎる背の低い指導者の姿を追いかけた。この背の低い指導者は、五体短小、でっぷりと太った男で、一見して今日の最高レベルの肩書きであることがわかった。しかし、彼はどことなく自信なさげに見え、少し不安そうに緊張しているように見えた。何か問題が起きないかとびくびくしているようだった。

 背の低い指導者は教室全体を見渡し、急に双子の兄弟の一人Tughluhjanの机の前に進んでいった。彼を見つめながら指導者は調子外れの中国語で「君の名前は何て言うのかな?」と質問した。「僕は図格魯克(中国語)と言います。」彼は怯えながら答えた。

わぁ、あなたはウイグル人だったのですね

 指導者は満足げに彼の教科書を取り上げてページをめくり、やはり調子外れな中国語で「このページを読んでごらん。」と彼に言った。彼は教科書を持って、覚束ない中国語で読み始めた。「中国共産党好、社会主義好、民族団結好。(中国共産党はすばらしい、社会主義はすばらしい、民族団結はすばらしい。)」

 背の低い指導者の顔に笑みが浮かび、学校の指導者たちも緊張が解けたようだった。歴史的な出来事に出会った記者たちは、指導者と彼の写真を撮りビデオに納めた。指導者は満足げに彼の肩をたたき、下手くそな中国語で「すばらしい、すばらしい!」と何度も言った。

 子供たちもこの緊張した雰囲気に慣れ始め、Tughlukjanも緊張が解けて気が緩んだようだった。背の低い指導者の笑顔に促されたのか、Tughlukjanは自信を持って中国語で「おじさん、お名前は何とおっしゃるのですか?」と尋ねた。背の低い指導者は再び下手くそな中国語で「私は司馬義・提力瓦地(スマイ・テリワディかな?)と言うんだよ。」と答えた。子供の自信がこの背の低い指導者にも自信を与えたようだった。指導者の笑顔は更に輝いた。

 突然、天真爛漫で可愛らしいTughluhjanは背の低い指導者に向かって、極めて流暢なウイグル語で「Siz Uyghurkensizde!(わぁ、あなたはウイグル人だったのですね!)」と言ってしまった。

 背の低い指導者の表情は一瞬にして曇り、しかめっ面になった。学校の管理職教員も記者たちも唖然としてTughluhjanを見つめ、何を言ったらよいか、何をしたらよいか、全くわからない感じだった。Tughluhjanも気まずい雰囲気に気がついて、救いを求めるようにアディリ先生を見つめた。しかし、アディリ先生は、呆然とTughluhjanを見つめるしかなかった。アディリ先生の目には、あきらめ、困惑、悲憤の感情が浮かんでいた。

 背の低い指導者は声を震わせながら黒板に近づいていき、震える手を振り回しながら、学校の管理職教員とアディリ先生に向かって下手くそな中国語で怒鳴り始めた。「おまえらはみんな失格だ、学校の管理職も替えなければならん。」そして、子供たちには目もくれず威嚇するように慌てて教室を出ていった。

 Tughluhjanは泣き出してアディリ先生の懐に飛び込んでいった。アディリ先生は彼をしっかりと抱きしめて深いため息をついた。アディリ先生の表情は茫然とし悲憤に満ちていた。彼は一言もしゃべることもできずにいた。教室内のその他の子供たちも驚きの表情のまま茫然としていた。何人かの女の子は泣き出していた。

背の低い小心者の指導者の怒り

 背の低い指導者は学校の会議室に入り、引き続き震える手を振り回しながら、中国語で学校の指導者たちを叱責し続けた。「おまえたちの党に対する態度は何なんだ?党がおまえたちに仕事を与えたんだぞ。にもかかわらずおまえたちは党を騙すつもりか?さっき見ただろう、あの嘘つきのガキを。ウイグル語で質問してきたんだぞ。なんていう大胆な奴だ?テロリストの子供なのか?きっと分裂主義者に違いない!」

 さらに彼は中国語で「今日限りであのガキを退学させろ!それからあの教師も仕事を辞めさせるんだ。ウイグル民族の学校管理者は全員業務を停止して今日の重大問題の原因をつきとめさせろ!漢民族の学校管理者は、今後二度とこんなことが起きないように注意するように!」と喚いた。

 Tughluhjanが家に戻ったとき、家の門の前に父親と母親が待っているのが見えた。彼は思わず父親の懐に飛び込んだ。心に深い傷を負った彼は泣きじゃくった。母親はそのそばで気が気でないような面もちのまま何を話してよいのかわからない様子だった。しばらくしてTughluhjanは心配そうに父親に向かって「パパ、今日学校であったこと知っているの?」と尋ねた。父親は頷きながら「そうだよ。知っている。学校の先生が電話で教えてくれたんだ。」と答えた。

 Tughluhjanは言い訳をするように「パパ、僕は本当にわざとやったんじゃないんだよ。どうしてかわからないけど、気がついたらウイグル語を話しちゃったんだ。」と言った。

 「いいんだよ。わかってる。おまえは間違っていないよ。」
 「でも、パパ、学校の先生たちは、みんな僕が悪いって言ってるんだ!どうしてわかってくれないんだろう!」
 「パパ、僕たちはウイグル人であるよりも漢民族みたいになった方がいいんだよね、そうだよね?」

 母親が手を伸ばすよりも早く、父親がTughluhjanの頬を叩くのが早かったのかもしれない。Tughluhjanは地面に倒れ込んだ。母親の目には涙があふれ、恐怖で震えるTughluhjanを抱き抱え、家の中に入っていった。父親は苦痛に満ちた表情で家の中に入っていく子供と母親の背後を見つめ、悲憤のあまり天を仰いで言った。「おお神よ、いったいウイグル人であることは罪なのですか?」

(この真実の物語は、東トルキスタンの首都ウルムチのある小学校で発生した事件だ。背の低い指導者の名前以外、関係者を保護するために原作者はその他の登場人物の名前を別名に替えていた。)

(本文は2011年1月12日に博訊新聞網に掲載された。)
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 最近では中国語の教材が掃いて捨てるほど本屋の棚に並んでいますが、義務教育で英語の勉強をしたときも感じましたが、興味も関心もないような内容の文章を読まされても、ぜんぜん頭に入ってきませんよね。自分の関心のある内容のものを読むなり聞くなりすればいいんですよ。そうすれば私のようなバカでも、イヤでも頭に入って来るものです。

 中国語を勉強するとき、中国共産党の提供するような教材を使っていたら、それこそアホになりますよ。自ら進んで独裁者に洗脳されるアホにはなりたくないですよね。

 

林昭 Lin Zhao その三

 余潔さんが「自由亜州電台(ラジオ・フリー・アジア)」に寄稿した文章の後半部分です。くどいようですが、私の翻訳は必ずしも正確ではないので、中国語がわかる人は原文を読んだ方がよいと思います(https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wenyitiandi-cite/yj-01052022131024.html)。

 私は1989年6月4日の天安門事件を直接見た人間なので、「中国人」を一括りにしてどうこう言うのには若干の抵抗感があります。もちろん便宜的に「中国人は~~」という表現をすることはありますが、その範疇に入らない中国人が山ほどいることは前提です。日本人にも一般的傾向というものはあると思いますが、一括りにしてどうこう言われたら、誰でも反感を持つのではないでしょうか。

 私にとって「林昭」の発見は衝撃的でした。たぶん、彼女の叫びは数多いる良心的な中国人の思いを代表しているのではないかと思うんですよ。いかがでしょうかね。最近都市封鎖を経験した上海人なら解るんじゃないでしょうか。

 林昭を描いた映画があるようなんですよ。主演はハンナ・ウーさんという女優のようなのですが、雰囲気的には合ってますかね。ただ、言語が英語なんですよ。たぶん、生粋の中国人が見たら、どこか違和感がある描き方になってるかもしれません。いずれ、生粋の中国人の手で彼女の映画が作られると思いますが、その時こそ中国に自由と民主主義が開花しているはすですね。

 4月29日---林昭遇難53週年忌日。傳記故事片《五分錢生命》預告片(Movie "5-Cent Life" Trailer)
 https://www.youtube.com/watch?v=rwtCfRVM1lg

 それでは訳文の後半です。
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 林昭の“迷途知返(さまよった末に正しい途にたどりついた)”は、北京大学で陰険で悪質な反右派運動を身を以て経験したためだ。その後彼女は蘭州大学の張春元ら右派の友人たちと知り合い、彼らから農村で発生している想像を絶するような悲惨な大飢饉のことを知ることになる。彼らは地下出版物「星火」を印刷し、大躍進政策の災難や毛沢東による人民奴隷化政策を告発していた。この時林昭の心に、かつて教会系学校で受けた“自由、平等、博愛”のキリスト教精神が蘇り、キリスト教徒ととしての良心を取り戻した。林昭はアウグスティヌスカルヴァンボンヘッファーの著作を読む機会はなかったし、二千年に及ぶカトリシズムや歴代聖徒の豊富な精神的系譜を授かったこともない。しかし、彼女は獄中の極限状態の中で直接神の言葉の恵みを受け取ったようだ。つまり、“真理によって自由を獲得”したのだ。まさに彼女が獄中で書いた手紙の中で宣言しているように、“私の命は神のものだ・・・もし神が私を必要とするなら私は生き続ける、きっと生き抜くことができる。もし神が私を自覚的殉教者にしたいのならば、私も心から感激してその栄光を賜りたい!”もし真理の光がなければ、彼女は自分一人の力に頼るしかなく、残酷な刑罰に耐えることも死を受け入れることもできなかっただろう。

 多くの人がフランスの“聖女ジャンヌ・ダルク”になぞらえて林昭を“聖女”と呼んでいる。しかし、林昭は自分を決して超越的な存在とは思っていなかった。彼女は「私はファッシスト共産主義の悪魔たちから自分の基本的人権を取り戻すことを堅く決意している。なぜなら私は一人の人間だからだ!一人の独立した人間として、私は生まれながらに持っている、そして神の与えたもう完全な人権を享有する権利を本来持っているのだ。」連曦氏が著したこの伝記の本質的価値は、林昭を終始人間的な感情や欲望を持ち、頑固で一途で欠点のある一つの生命体として研究し表現していることである。林昭の人生の輝きを描くと同時に言葉の背後にある闇の部分にも光を当てている。

 林昭が母親に宛てた手紙には高邁な理想論を記したものではなく、江南地方のグルメ料理を熱心に並べたてているものがある。「私にこんなの作ってよ、お母さん、私食べたいの。柔らかくなるまでじっくり煮込んだ牛肉や羊肉、豚の頭の煮込み、豚油の煮凝り、牛筋の焼いたの、鶏肉か鴨肉を焼いたの、お金が足りなかったら誰かに借りてね。魚も無くてはだめよ、塩漬けのタチウオ、新鮮なマナガツオ、ケツギョは丸ごと一匹、これを蒸してね。フナのスープにコイの蒸し焼き。全部蒸したの、焼いたのは要らないわ。それに魚の干物でご飯を食べたい。月餅、お餅、ワンタン、水餃子、春巻、焼餃子、ヤキソバ、粽子、団子、臭豆腐干、パン、クッキー、フルーツケーキ、緑豆ケーキ、酒醸餅、カレーライス、油球、ロンドンケーキ、開口笑。糧票(食料チケット)が足りなかったら誰かに恵んでもらってね。・・・」林昭は自分の大好きな食べ物やお菓子を滔々と並べ立てて、わざと母親を困らせるようなことを言っている。文革の狂騒の中で、自分自身の生活でさえままならない母親が娘のためにこんなにもたくさんの贅沢な食べ物を準備できるはずなどなかった。仮に何とかできたとしても、監獄の中に送ることは不可能だっただろう。林昭は面白がって記憶の中のグルメ料理を書いて見せただけなのかもしれない。これは監獄の中で極度に貧しい食生活おくる人間にとっては当たり前のこととも言える。しかし林昭は、あるいはもっと深い意味を託していたのかもしれない。老練なマスコミ人である朱学東氏は、『林昭 “斎斎我”的背後』という文章の中でこう指摘している。蘇南地方の呉語を話す地域では、“斎斎”の発音は“zaza”となり、献祭(祭り捧げる)という意味がある。つまり儀式的に重々しく敬い食べ物を捧げるという意味であり、この言葉の背後に泰然と死と向かい合う彼女気持ちが現れているというのだ。

 獄中では極めて限られた情報しか得られなかったため、林昭の政治的判断は完全に正確であったとは言えない。たとえば20世紀後半のアメリカにおいて、ケネディは先見の明のある大統領でも信念のある政治家でもなかったが、林昭は中国政府メディアが批判的に取り上げたケネディの断片的な言葉から、ケネディは第一級の偉大な人物であると推定している。1962年病気治療のために保釈されていた期間中、彼女は「人民日報」に掲載されたケネディベルリンの壁での講話を読んで感激し、“たった一人でも奴隷的状態に置かれている人間がいるのであれば、全人類が自由であると言うことはできない”という言葉を引用して、ケネディを「偉大な政治家であり、偉大なアメリカ人」であると賞賛している。1963年11月、林昭はケネディが暗殺されたというニュースを新聞で知り、「深く激しい哀悼と悲愴感」を文章で表現している。

 本書は相当なページ数を割いて、これまで人々から無視されてきた獄中の林昭の“精神的逸脱”の真実を描いている。当時上海市の党委員会書記だった柯慶施を、彼女は陰の救世主、精神上の恋人と考えていた。情報が限られていた上に、柯慶施は上海市民に人気があったので、彼が毛沢東の熱烈な地方支持者であることなど彼女には知る由もなかった。毛沢東は自分より若い彼を“老柯”と呼んだりしていたが、それはおそらく柯がソ連留学時代にレーニンに会ったことがあるからだろう。林昭は獄中で蜃気楼でも見ているかのように、文革前に病死した柯慶施が自分の無実を毛に訴ええたため逆に毛に謀殺されてしまったものと思っていた。彼女は柯の位牌をシャツの上に血で描きその霊を清めた。この儀式によって柯を共産党の党籍から離脱させ、彼の魂が主によって救済されるものと考えたのだ。演劇の脚本のような『霊偶絮語』という作品の中で、彼女は女性主人公としての自分と柯との冥婚(死後の婚姻)を描いている。これについて連曦氏はこう言っている。「このような文章を書くことによって彼女は孤独な監獄生活を幻想的な世界に変えていったのだろう。そこでは彼女にとって親しい二人の死者を自由に呼ぶことができ、いつでも話をすることができたのだ。そうやって自分を慰めていたのだろう。」彼女のことを崇めている後生の人々や研究者は、林昭の間違った判断や妄想を隠蔽すべきではない。林昭のこの“精神的逸脱”から、むしろ私たちは林昭が獄中で受けた非人道的な扱いの酷さを想像することができるからだ。ボンヘッファーナチス強制収容所での境遇は林昭よりも遙かにましなものだった。この事実から中国共産党の残虐さと邪悪さはナチスなど足下にも及ばないものだと反証することができるだろう。

 林昭は“異民”という表現で自分自身と、毛沢東時代に政治的迫害を受けた被害者、つまり歴史上の反革命分子、地主、右派分子、現在の反革命分子とその家族たちを定義している。「彼ら異民たちはインドのカースト制度における非可触賤民よりもさらに貶められている」と林昭は指摘している。

 林昭の家族は全て“異民”だった。彼女の父親、彭国彦は北洋政府時代に東南大学を卒業したエリート人材で、卒業論文のテーマは『アイルランド自由邦憲法述評(?)』だった。その後彼は短期間だが県長を勤めたりしている。共産党が実権を握った後は“歴史反革命分子”とされ、その罪を認めなかったため“頑固分子”の烙印を押された。そして、1960年11月23日に服毒自殺をしている。彼女の母親、許憲民は社会活動家であり企業家でもあった。国民党南京政府の国民大会代表に選ばれたこともある。その後考え方が左翼的になっていったが、中国共産党の政治運動による迫害から逃れることはできなかった。林昭が銃殺された後、彼女は電車に飛び込んで死のうとしたが死にきれなかった。苦しみながら1975年まで生き続け、服毒自殺。一家三人の運命は林昭の言うとおり「私たち中国の無数の犠牲者たちは、その尊い命を捨て去って、共産党の悪魔のような全体主義的暴政による生命に対する汚辱と弾圧に決然と抵抗しているのだ!」

 林昭の資料は中国共産党によって未だに極秘とされ、対外的に公開されていないため、現在でも監獄職員や獄中の友人などによる林昭の獄中生活の具体的な様子についての証言を探し出すことができない。連曦氏は林昭が残した獄中の文章だけを根拠に、上海提藍橋監獄の生活の情景を再現するしかなかった。十年以上前、私は字跡がぼやけてしまった獄中文書のコピーを手に入れることができた。しかし、中国に戻った際に北京空港の税関に没収されてしっまった。私は弁護士を頼って何度も税関と交渉し、やっとの思いで取り返すことができた。中国共産党の監獄はまるで地獄のようなところで、彼らは監獄に関する情報を厳重に秘匿している。おそらく中国共産党政権が崩壊したとき、はじめて林昭の資料と監獄内部の情景が明らかになるだろう。将来、連曦氏がそれらの資料を読むことができれば、もしかしたら本書の続編が書かれることになるのかもしれない。

 林昭が銃殺された後、家族はその遺体を蘇州郊外にある霊岩公墓に葬ったという。私は中国を離れる前に林昭の墓に参謁するために赴いたことがある。公墓のある山の麓には参観客を林昭の墓に案内する仕事を兼業としている現地の人たちがいた。“案内料”は決して安くはなかった。おそらく林昭の墓を参観するために訪れる人が絶えることはないのだろう。もはや林昭の墓は民主主義の聖地となっているのだ。しかし、中国の民衆は未だに魯迅の小説『薬』に描かれた血塗れの饅頭を喜んで食うという性質から脱してはいないらしい。まさに林昭が生前に哀嘆したように「この奴隷制度の中で生きる人間たちは・・・なんと憎むべきか!」

 中国の現代史は退歩の歴史だ。私が中国を離れて何年も経たない内に、林昭の墓が厳重な警備を要する“国安重地(国家保安上の重要地点)”に指定されたと聞いた。現地の警察は墓の周囲に大量の監視カメラを設置し、参観に訪れた人々を厳重に監視しているという。林昭の墓地は趙紫陽と同等の待遇を受けているわけだ。林昭の命日に参観に訪れる多くの人々が警察に暴力的に阻止され、暴行され、拘束されているという。林昭は生きている間は“異民”となり、死んでからは“異鬼”となったのだ。中国共産党は彼女を生かしてはおかなかったが、死んだ後も安眠はさせないつもりらしい。これはおそらく中国共産党劉暁波の家族にその遺骨を海に散骨させたのと同じ理由によるものだろう。

 連曦氏は、すでに過ぎ去った過去の出来事を述べているのではない。林昭の物語の新しいバージョンが現在でも中国で繰り返されており、林昭を虐殺したその体制は現在も活動をやめていないのだ。武漢肺炎の真実を暴露した民間ジャーナリストの張展氏は今も林昭と同様に獄中でハンガーストライキをしている。湘西郷村の女性教師李田田氏は、たった一言言論の自由を支持すると言っただけで、林昭と同様に精神病院に閉じこめられている。新疆大学の女性教授で人類学者のラヒラ・ダウト氏はウイグルの民俗と民族誌について研究したために“民族分裂主義”の罪名で秘密裏に重刑を受けている(刑期は外部に知らされていない)。政府に批判的な法律学許志永氏の友人である李翹楚氏は、獄中の友人に対する虐待を批判しただけで“国家政権転覆煽動”の罪で逮捕され、獄中で虐待され重度の幻聴を病んでいる。彼女たちは皆新しい時代の林昭ではないか。

 野火焼不尽、春風吹又生。このように次々と現れる“異民”たちは、最後にはこの東亜の大陸の暗闇に自由と正義をもたらしてくれるに違いない。
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 二週間ほど前から『維吾爾雄鷹 伊利夏提① 中国植民統治下的「東突厥斯坦」』を読み始めました。第2巻と第3巻は注文中です。著者はイリシャット・ハッサン・コクボレさん。以前youtubeで彼の動画を見たことがありますが、非常にわかりやすい中国語でありがたかったです。ウイグルについても勉強しないとね、何しろ知らないことばかりだし。

林昭 Lin Zhao その二


 何か、こう胸の奥に深く沈殿していくような、言葉では言い表せない感情が残りますね。彼女が銃殺されたのは1968年4月29日。私はその頃2歳半の幼児ですが、それでも生きていた時間に重なりがあるわけです。もっとも彼女は12歳ぐらいまでは第二次世界大戦の時期と重なっているので、日本人といえば“侵略者”であり“敵国人”でしかなかったはずですね。でも、どういうわけか彼女の弟は日本の俳句の研究者なんですよ。まぁ、兄弟とはいえ別人ですし、弟の方は姉の問題もあって政治嫌いだったようですし。

 勝手に想像してしまうんですよ。もし彼女が提籃橋監獄の鉄格子の内側から現在の繁栄した上海の街並みが見えたら、いったいどう思うだろうか。もちろん毛沢東を崇拝する習近平共産党独裁体制は今でも続いているのだけれども、少なくとも物質的には彼女が生きていた時代の中国とは違い、非常に豊かになっているわけです。でも、もしかしたら林昭は天性の直感で、現代の中国も自分が望んだ人間の自由が尊重される世界ではないことを見抜いてしまうかもしれませんね。

 彼女に興味を持って以来いろいろ調べているのですが、彼女が書き残した“血書”、つまり自分の血で記した文書も、まだ全てが公開されているわけではないのでわからないことも多いんですね。中国共産党にとっては当然“隠蔽”と“抹殺”の対象ですから、私が生きている間にそれら全てが公開されることはないかもしれません。でも、そんなことでいいんですかね。彼女は全中国人にとっての精神的財産ではないかと、私は思いますよ。

 いろいろ資料を探していたら、余潔さんが「自由亜州電台(ラジオ・フリー・アジア)」に寄稿した文章が掲載されているのを見つけました。余潔さんは、私が尊敬する中国人の一人ですが、何しろ頭脳の出来が私と違うので、彼の書く文章は時に非常に難しいのです。本来、私のようなボンクラが訳してはいけないのですが、林昭に関する文章なので、勉強と思って挑戦してみました。訳が正確とは言えないので、中国語がわかる人は原文を読んだ方がよいでしょう( https://www.rfa.org/mandarin/pinglun/wenyitiandi-cite/yj-01052022131024.html)。

 長いので二つに分けます。今回は前半です。

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禁書解読
余潔:臣民でも暴民でもない“異民”としての林昭---連曦『血書:林昭的信仰、抗争与殉道之旅』
2022年1月14日

中国毛沢東時代の異端思想の頂点である林昭の反共と反毛

 中国思想史と中国キリスト教史の先覚者たちは絶えず抹殺され葬られてきたため穴だらけの歴史となっている。歴史書の中心は歴史家たちが大袈裟に描く栄光に満ちた成功者たちによって占拠されているが、彼らの大半は時節を読むのが得意で己の保身のためにうまく立ち回った凡人か奴隷根性の持ち主でしかない。全く逆に、たった一人で危険を顧みず強大な権力に立ち向かっていった“思想史上の失踪者”が存在している。彼らこそこの大地の脊梁であり、記録され、思い出され、受け継がれ、発揚されるべき対象である。“思想史上の失踪者”の発掘は極めて困難な“知識考古学”だが、このような仕事は苦労ばかりが多くて割に合わないものであり、努力に応じた結果が得られるともかぎらない。

 小さな灯火で長く暗い夜を照らし出すことは難しい。しかし、暗闇の中にいる人々に一筋の希望の光を見せることは可能だ。中国思想史と中国キリスト教史に、林昭のような人物の記載が有るのと無いのとでは、天と地ほどの違いがあるということになるだろう。長年にわたって中国キリスト教史と中国近現代史を研究してきたアメリカ・デューク大学の世界キリスト教研究講座教授連曦氏は、8年もの時間をかけて、蘇州から北京大学、提藍橋監獄から霊岩山公墓に至るまで訪問し、大量の一時資料を収集し、さらに林昭の友人たちを取材し、“思想史上の失踪者”の一人である林昭のために、彼女の思想と精神の伝記を歴史上最も完全な形で一冊の本にまとめ上げた。このような著作が学術界において高い名声をもたらすとは言えないだろう。しかし、林昭の長詩の標題と同様、それは天界から火を盗んだプロメテウスのような仕事であると言えるだろう。林昭の生命と思想の変遷を再現することによって、将来の中国の民主化のために大切な火種をもたらしたのだ。それはとても小さな火種かもしれないが、中国の民主主義への転換の成否と優劣を決定づけるものに違いない。

 私が林昭の名前を最初に知ったのは、北京大学中文系(中国語学部)銭理群先生の授業でのことだった。その後、私は北京大学大学史や中文系史、北京大学図書館の膨大な蔵書を調べてみたが、林昭に関する資料は何一つ見つけることができなかった。銭先生は私の指導教官ではなかったが、私に最も影響を与えた先生だった。しかし、銭先生は西洋キリスト教文明や信仰については詳しくなく、キリスト教と林昭の重要な関係性について意識はしていたけれども、この方面からのより深い研究や解読はできなかったようだ。さらにその後、私と劉暁波氏は“天安門の母”として有名な丁子霖氏と知り合いになり、彼らから林昭についてのより多くの事跡や観点を聞くことができた。反抗者と反抗者の間には心に通じるものがあり、それは時代や生死を越えるものなのだろう。

 林昭の共産党毛沢東への反抗は体系的に論じられたものではない。しかし、それは本質的で徹底的である。彼女は西側の政治学について専門的に学んだことはなかったし、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読んだこともないだろう。それでも彼女は正確に“極権(以下:全体主義と訳す)社会”という概念によって共産主義中国を定義している。林昭の“全体主義”という単語は使用は、1960年代の公的な中国社会では他に例がない。1950年代に中国官製メディアがユーゴスラビア共産主義者連盟綱領の草案を批判するために“全体主義”という単語を引用したことがあるが、反右派闘争以降は二度と使用されることはなかった。中国人が最も早く“全体主義”を知ったのは、1939年に青年会が出版した余日宣の『キリスト教徒と極権主義』を通じてだった。林昭は、中国は全体主義統治の警察国家であり、特務機関が党の全てを支配し、党が国家を統治していると指摘している。この種の全体主義体制は人民の血とルサンチマンによって権力が維持されており、個人への迷信や偶像崇拝の土台に築かれ、人民は愚民化政策によって奴隷根性が植え付けられているという。林昭はさらに具体的実名を上げて、毛沢東を未曾有の暴君でありならず者であり、中国の暴政は暴君毛沢東の馬鹿げた気紛れの結果であると糾弾している。彼女は毛沢東の「七律・人民解放軍占領南京」を書き換えて、最後の四句で毛沢東を歴史上の恥辱として断罪している。“只応社稷公黎庶、那許山河私帝王?汗慚神州赤子血、枉言正道是滄桑(これは・・・翻訳不能!)”

 学者である印紅標氏が『失踪者の足跡:文化大革命期間の青年思潮』を書いたとき、林昭の資料はまだ発見されていなかった。本書には林昭のことや『星火』の地下出版に関わったメンバーの事柄や観点は収録されなかった。実際、林昭の思想の深さや広さは本書に収録されている大部分の人物より優れている。林昭と比較できるのは、顧准、王申酉、張中暁、魯志文など数えるほどしかいない。たとえば、知識青年魯志文はこう指摘している。中共全体主義政権であり“世界の共通認識である民主的権利や人民の思想や言論の自由の一切を禁止している。また、暴力的な統治に対して反対したり、ただ単に賛同しなかっただけの人々を残酷に鎮圧している。酷いときには大っぴらにテロリズム的手段を利用する。・・・人類を敵視する反動的謬論を大々的に拡散している。たとえば人種的優劣論や反動的血統論、人為的に作られた階級闘争や階級隔離などだ。これによって一部の人々を惑わして籠絡し人民鎮圧の目的を達成しているのだ。この他にも大々的に愚民化政策を押し進めており、奴隷化教育を実施している。奴隷主義によって人々に盲目的服従精神を押しつけ、個人に対する迷信や指導者至上主義の神話を宣揚している。”惜しむべきは、中国共産党の過酷で残虐な統治によって、このような孤立した思想的先駆者たちが互いに結びつき、協力してさらに重厚な思想的成果を生み出すことができなかったことだろう。

徹底的な抵抗を支えたキリスト教の信仰

 『血書』の中で連曦氏はホームズのような探偵の目と心で、これまで知られることのなかった多くの真相を明らかにした。林昭の妹の彭令笵は姉のことを回想する文章を書いているが、当時彼女と姉の関係は疎遠であったため、文章の中に若干の事実誤認が見られる。たとえば、連曦氏は林昭は龍華飛行場で銃殺刑に処されたのではなく、提藍橋監獄内で公開銃殺されたことを明らかにした。より重要なことは、“林昭の謎”・・・つまり、林昭が岩石の溝から飛び出した孫悟空のような超人的存在ではなく、彼女の抵抗のエネルギー源はキリスト教の信仰であったこと、そして彼女の妥協のない決意は、誰も望まない殉教の道を彼女自身が自発的に選んだことによるものであることを明らかにしたことである。

 林昭は少女時代にキリスト教系の蘇州景海女子師範学校の教育を受けている。この学校はアメリカのメソジスト監督教会(南方循法会、1939年以降、南北循法会は衛理公会に併合された)が中国で設立した学校である。連曦氏はアメリカ連合衛理公会の資料室で多くの一時資料を調査している。景海女子師範学校の設立と発展は、キリスト教系の学校が近代中国にもたらした文明開化的役割は無視できないものであることを示している。しかし、連曦氏はキリスト教系の学校と西側宣教師の貢献に対する評価にとどまらず、林昭が一時期キリスト教から距離を置き共産主義に傾倒していった心の動きから、一つの大きな疑問について自省的に考えている。すなわち、二つの異なった思想体系の衝突において、いったいなぜキリスト教の信仰は共産主義に打ち負かされてしまったのだろうか。

 林昭はその最も代表的な例だろう。林昭は景海女子師範学校に入学してすぐに宣教師の導きに従って洗礼を受けている。しかし、洗礼は決して彼女のキリスト教への信仰が盤石になったことを意味してはいない。ほどなくして、彼女は危険を顧みず共産党に参加し、すぐさま中国共産党が設立した新聞専科学校で学ぶことを選択している。父親は彼女に、“青年の純粋な情熱を政治に利用することは残酷なことだ”と言って、共産党を信用するなと警告している。しかし、林昭は聞く耳を持たず、積極的に土地改革運動に身を投じ、家族が引き裂かれてもおかまいなしだった。“活不来往、死不弔孝(生きて会うことはないし、死んで弔うこともない)”と彼女は宣言し、父親が“美国之音(ボイス・オブ・アメリカ)”を隠れて聞いていると政府に密告するなど酷いこともしている。

 あの時代の最も優秀な青年たちにとって、共産主義はなぜキリスト教の信仰よりも大きな影響力を持ったのだろうか。先ず第一に教会や教会系の学校が世俗化、功利主義化してしまっていて、福音よりも世渡りの方が優先されてしまっていたことがあげられる。当時の宣教師や教会系学校の教師たちは、もはや清教徒時代の整然とした観念体系を失っていて、マルクス主義の攻撃の前に為す術もなかった。景海女子師範学校を例にあげると、この学校は多くの上流階級や中産階級の女子学生にとって魅力的であったけれども、親の関心事は子供の職業と結婚であって、子供の精神的成長ではなかった。学校は宗教儀式を教えていたが次第に形ばかりのものになっていた。もう一つは、共産主義が約束した過激なユートピア思想が、教会が教える生温い社会改良主義よりも青年たちを一層強く引きつけたことだ。国民党の腐敗や社会の暗黒面、列強に侵略される中国の現状は、中国の知識青年たちから次第に忍耐と理性を奪っていった。彼らは一刻も早く満身創痍の中国を救い出す処方箋を探しだそうとしていた。そこに共産主義が最もよい処方箋を提供したのである。・・・もちろん、何年かの後に人々は、この処方箋は病を治せないばかりか残酷で致命的なものであることを思い知るのだが。

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 共産主義が財産の私有を禁じていることぐらいは常識でしょう。でもそれは甘い考え方です。共産主義が奪うものは財産だけではありません。あなたの身体も精神も全て自分のものではなくなるのです。人間がどう生きるかは民主集中制の頂点に立つ“指導者”が決めるのです。となれば、あなたに自由はありません。ということは、あなたがどう考えるのかも、どう行動するかも、全て“指導者”が決めるのです。林昭は監獄の中でこの強大な敵とたった一人で闘ったのです。